鯨研通信500号より(財)日本鯨類研究所

北前船の寄港地と日本100名城巡りから始まった

瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの第1回(坂越浦の北前船)

第1回(坂越の北前船)

 

2014年頃から、故郷が秦河勝のゆかりある神社や、聖徳太子のゆかりかる神社をたずねていた。
 
2015年6月宇治橋の近くにあった宇治市の放生院(橋 )にいった。
この日、住職から宇治茶が日本遺産に認定されたことを聞いた。
 故郷坂越には何があるだろう?と思った。坂越は廻船の町だった事は知っていたから
もしかして北前船と関係があるかもしれないと調べた。f:id:kitamae-bune:20190511072954j:image

2007年から「北前船寄港地フオーラム」作家の石川好氏の発案で日本海側で開催していたのを知った。

 

 そんな2015年、坂越浦会所で北海道余市の福原漁場で昔の坂越港の風景の絵の写真を見て、以前読んた「高田屋嘉兵衛」の世界が広がった。

  

 

 

  

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写真家の提供

 当時、朝ドラのマッサンで余市のニシンの話があった事もあり、この絵をききかけに、坂越でボランティアでガイドをしながら、北前船の足跡を調べるようになった。
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 地元では北前船日本海の事で高田屋嘉兵衛は小説の世界との意見が大勢だった。

 そんな空気の中、坂越のまち並みを創る会の方に、相談して私の北前船の調査がはじまった。

 9月、下津井廻船問屋の矢吹勝利館長、尾道の西井亭学芸員を訪ねた。
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 西井亭学芸員は、「 尾道の方が書いた『尾道の絆』も参考すると、貴方も寄港地を訪ね出版して市に提出しては」の一言がききかけでこのシリーズがはじまった。
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 こうして、「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの」と題して、多くの方々に投稿をお願いしたのが始まりだった。

 日本海側の北前船寄港地の坂越の足跡は、東京都立図書館で市や県史等から調べると酒田、野辺地に坂越の名があった。

 

 坂越でも投稿をお願いしながら北前船の足跡も調べてると、板の古文書が安永家(大西家)に赤穂市指定文化財の船賃銀定法(1739年)があつた。

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松前日本海等、薩摩等全国の地名があった。

また、県指定文化財の黒崎墓所と酒田大信寺との繋りもわかった。

 昭和58 年発行の赤穂市史 第2巻には、坂越の廻船は、問屋も兼ねた買積船だと述べられ大西家は、大避神社に立派な常夜燈(1768年)がある。

 その一方、海難事故は多く渋谷家が 1694年酒田沖での海難事故、遭難が多発して いた事も赤穂市史にあり、大避神社には海上安全を祈願した享保時代の常夜燈、弁財船(古いもので1722年)の絵馬が数多く残っている。  

 

 これと並行し坂越のまち並みを創る会から、加賀橋立を皮切りに北前船寄港地フォーラムに毎回参加した。

 

この時対談した道場六三郎さんの銀座の会食みちばの坂越の3人で行き、このマネージャーに投稿していただいた。

 

  新たな企画として「北前船寄港地 坂越」の法被は、下津井廻問屋の矢吹館長の紹介でできた。
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 坂越の船祭りと廻船の活躍を、日常的に発信する為、地元業者の方々にお願いした。

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 塩味饅頭の包装紙(江戸期の坂越の船祭りの絵柄)は、明和期創業の元祖播磨屋になた。

 この塩味饅頭は、北前船寄港地フォーラムの2017年新春の会(東京椿山荘)で寄港地の首長など参加された80人の方々に配られた。


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 この椿山荘で、坂越の北前船の活動が紹介されたのを機に、1年かかったこのシリーズを2017年2月からフェイスブックへの投稿で多くの方々と出会えた。

 

 第19回までは、「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの」を加筆訂正した。

 

          東京在住 矢竹考司