倉敷市の「むかし下津井回船問屋」に初めて行ったのは2015年9月。
北前船寄港地の地図には坂越の名前もあった。
展示されていたものには大変珍しいものがたくさんあり、訪れた人はもう一度行きたくなる廻船問屋跡で、以来坂越まち並みを創る会との交流するようになった。
赤穂民報の掲載から
坂越の北前船のイベントが2017年6月にあり30人の方々に下津井節を披露していた。
写真は矢吹館長と坂越の盆踊りの唄を披露した坂越民謡保存会の篠原明さん。
倉敷のジーンズで作られた「北前船寄港地 坂越」の法被は矢吹館長の紹介で出来たもので、その高級感と文字の響きから北前船の話で盛り上がる事がよくある。
以下の投稿から1年後、札幌発『すすめ北前船』に演され、ブログ『すすめ北前船下津井』で紹介している。
2018年追記(矢竹 考司)
むかし下津井回船問屋から
2016年4月13日
ある時代、殷賑を極めた港町がありました。瀬戸内海のほぼ真ん中に位置し、誠に風光明媚な土地にあります。この湊を下津井と言います。
江戸時代から明治時代にかけて、綿花の栽培に欠くことの出来ないものが、ニシン粕と言う肥料でした。ニシン粕はニシンの〆粕とも呼ばれたように、ニシンを絞って油を取った残り粕でした。
当時は、蝦夷と呼ばれた北海道の江差周辺で、無尽蔵とも言われるほど捕獲されたニシンは、身欠きニシンなどに加工されたもの以外は、ほとんど魚油の採取に使われました。絞りかすは天日干しされ、カマスや俵詰めにされ船で全国各地に運ばれました。
このニシン粕を運んだ船が、北前船と呼ばれた千石船でした。千石船は、その当時にあっては最大級の大型帆船でした。この帆船が船団を組んで下津井沖に姿を見せる頃になると、下津井の商家や花街は一気に賑わいを増しました。
多い時には、一シーズンに八十三艘もの北前船が下津井に着岸したと言いますから、その賑わいは想像を絶するものがあったと思われます。下津井の沿岸には二十数軒もの北前船相手の問屋が軒を連ねていたと言われています。
北前船が運んでくる肥料のお陰で下津井周辺の干拓地や畑では、大々的に綿花の栽培が行われました。
そして、その頃の綿作と綿の加工技術が始まりで、繊維の町児島が誕生するきっかけになります、特に帆布と呼ばれている厚手の生地は、千石船の帆に使われただけでなく、足袋に加工され、戦時中には軍服に、戦後は学生服として爆発的に売れました。
今は国産ジーンズ発祥の地として児島ブランドは、多くの方々に愛され世界各地に輸出されています。
また、北前船は商品だけでなく、情報や文化、芸能も運んできました。
その一つがお座敷歌として広く親しまれてきた下津井節です。下津井節は今も岡山を代表する民謡として歌い継がれています。
矢吹勝利(むかし下津井廻船問屋館長)