(財)日本鯨類研究所  鯨研通信500号より

北前船の寄港地と日本100名城巡りから始まった

瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの第14回(播州赤穂)

瀬戸内坂越の北前船交流記

第19回までは「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの全国版」を再構成したものです。

第14回(播州赤穂吉良町)

                         2016年12月14日

 

 12月は忠臣蔵の新説が紹介される事が多く、今年も西本願寺から新たな資料がでていた。

 2008年12月には日経ビジネスが、故長谷川正康著(元東京医科歯科大学名誉教授)が書いた「歯の風俗誌」を紹介していた。


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これは、元禄の刃傷事件を赤穂塩と吉良塩の確執から描いたもので、大筋は以下のようなものだ。  

 5代将軍綱吉に歯磨き用として赤穂塩を献上して以来、江戸では「赤穂塩」といえば歯磨き用の塩を意味するようになる。 

「赤穂名産花形塩」として江戸で評判になり、赤穂塩の江戸への進出がめざましくなっていったと述べている。 

 それまで将軍家へ献上してきた吉良家の「饗庭塩」は、「赤穂塩」が綱吉に献上されて、江戸での面目を失い吉良家にとって浅野家は意識せざるをえない存在になっていく。

 これが吉良と浅野の不仲の遠因だったと話が展開されていた。  

 この将軍家への「饗庭塩」献上について、国会図書館にもその資料はなく、西尾市学芸員の方もそう言われていた。 

さらに郷土史家加古文雄さんも吉良町に塩は、江戸には行っていと言っています。

 

 墨田区の「たばこと塩の博物館」では、こんな面白いスト-リーが史実なら、塩の研究をしていた学者が論文で残していたはずだ話があった。

 その一方、「江戸の入れ歯師たち」や「噛む」には、1854年四壁庵茂蔦著「わすれのこり」と1855年山崎美成著「赤穂義士随筆」に、江戸での赤穂塩の人気ぶりが書かれていた。

 堀部安兵衛が、歯磨き粉で赤穂の焼き塩で、江戸で最も有名だった芝の「かねやすゆうげん」の店の看板を書いた絵を紹介していました。

  その安兵衛の書いた看板は、去年の12月に赤穂観光協会の鍋谷会長ら4人で泉岳寺に行った時、赤穂義士記念館で私が見た看板の1枚だった。

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 また、大高源吾も麹町の歯医者だった小野玄入の看板を書いて、赤穂塩が江戸で1番人気でお祭り騒ぎにまでなっていたと書かれていました。しかし、これは時代が違うのと考えている。

 

 その「かねやす」は今も残り、江戸期は塩を含んだ歯磨き粉を売っていたと言っていました。これで赤穂塩の江戸の活躍の史実と、吉良の塩の江戸での創作で、書いた架空の話のようだ。

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  長谷川氏の本から赤穂塩には、江戸でもドラマがあった事を知った。赤穂塩が江戸まで運ばれるようになったのか、いつ頃かはっきりしていない。

ただ、1619年から菱垣廻船が江戸まで、あらゆる物資を運んでおり、この廻船を使い大阪から江戸に行っていたと考えている。

 1800年代に入り、日本海の廻船が活発になり、三田尻も塩を北海道まで運ぶよりなった事から、瀬戸内の廻船は衰退していく。

 坂越の廻船は、江戸への塩廻船へ軸足を移して、赤穂塩がより有名なる。

 長谷川氏の著書は、時代を全部一緒にしていると感じた。

 赤穂で完成した入浜式塩田は、昭和28年鹿島建設によって流下式に変わるまで300年以上続き、吉良町もまた、昭和29年鹿島建設によって太平洋側で唯一流下式の工事が始まっていたのです、その流下式も国の政策により共に閉じた。

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終わりに、この14号を書くにあたり、西尾市郷土史家の加古文雄さんには随分お世話になった。

 吉良町の塩田跡等を丁寧に車で案内して頂いたのは去年の事でしたが、その時「饗庭塩」は岡崎の八丁味噌 に用いられ、「塩の道」を経由して長野県伊那地方や塩尻まで運ばれ、にがりが少なく良質だと珍重されたと説明して頂けた。   

 その加古さんと、この12月に再開が出来た時は懐かしい感じがしました。去年から続く交流で浅草では楽しい時間が持てた。  

 最後にはこのシリーズをお渡しした。

加古さんからは、暖かい声援を頂いて頂いた。

 ( 矢竹考司)