(財)日本鯨類研究所  鯨研通信500号より

北前船の寄港地と日本100名城巡りから始まった

瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの第19回(岩国)

瀬戸内坂越の北前船交流記

第19回までは「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの全国版」を再構成したものです。

 

 第19回(岩国)
      
              2016年12月24日         
 今回は、坂越発祥のアース製薬の創業者にゆかりある方が出版した『嶋谷海運業史』から小樽等で活躍していた嶋谷汽船を紹介する。
 
 岩国には、日本100名城巡りで2016年7月にいったが、この時は、嶋谷汽船の末裔の嶋谷徹氏が、アース製薬の礎を築いたお孫さんと知る由もなかった。
 観光協会の方が佐々木小次郎の歌や踊りを披露してくれた。f:id:kitamae-bune:20180324181201j:image
 岩国観光の中心は、錦帯橋岩国城、そして佐々木小次郎だった。
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 それから5ヶ月、坂越まちなみみ館に嶋谷徹氏から『嶋谷海運業史』が届いた。
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 添えられていた手紙に、氏の亡きお母さんの父親にあたる方が、坂越の木村製薬(現、アース製薬)の創業者の木村秀蔵氏だったことが書かれていた。
 
 京大で金融論を選考、三井銀行に入行し海運業界の道に進まなった徹氏の先祖への想いが述べられていた。
 「われわれ子孫が今日こうあるのも、時代の波浪、激流の仲を奮闘努力した先祖のお陰であるとしみじみ実感でき、感謝の念と共に、こうした先人の努力や想いを少しでも理解し次の世代に伝えられれば……」と。
 
 戦前に国策で三井船舶と合併させられた時、社員によって編集された『嶋谷汽船略史』をベースに、残された断片的な資料をシグソーパズルをはめ込むようにつなぎ合わせ、御夫妻で各地の嶋谷汽船の足跡を訪ね出版されたものだった。
 
 1877年(明治10年)岩国由宇で氏の曽祖父、徳右衛門氏が廻船業を開始。
 由宇の廻船業者の多くが、鉄道の開通、電信電話の発達等の時代の変化に対応できず次第に廃業に追い込まれていた。
 こうした状況の中、嶋谷汽船(当時は嶋屋)は活躍している。
 
  江戸期の由宇は、廻船で栄え岩国藩の水軍が由宇に置かれ集積や積出港として、藩の出先機関まであった港町だった資料が、岩国由宇歴史民俗資料館に展示。

 

  明治の北前船は、江差から小樽に舞台が変わり、段々と帆船から蒸気船に変っていった時代。

この時代に嶋谷汽船は、廻船業を始め船旗に「上」を使用していた。
 村上水軍の旗の「上」の文字との関連について『嶋谷海運史』では、ミステリーでその関係は不明と掲載されています。

 二代目長男徳三郎氏の代に、1895年イギリス製の浦門丸(528t)を購入する等帆船からの脱却を早い時期から図っていた。
 1901年頃から、大和型帆船や木造汽船を処分し、堅実第一主義の経営に徹底し岩国由宇では嶋谷汽船だけになる。

 嶋谷汽船は、北前船航路の運航に蒸気船で進出し三国、伏木、小樽にも営業拠点をもうけ専用の定期便があったと述べられていた。

  

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 旧嶋谷社長宅は、今も小樽市文化財として残っている。
 2016年10月、小樽から坂越に来られた伊東直人氏の提供で、現在もある嶋谷汽船旧社長宅の写真の掲載出来きました。

 岩国の廻船業も、近代化の波で消滅してゆくが、その事業によって蓄えられた財力で、酒造業・金融業・織物業・造船業・海運業など、由宇の産業のうつりかわりの資料がこの歴史民俗資料館に展示されている。(矢竹考司)