瀬戸内坂越の廻船と赤穂塩

それは神社・日本100名城巡りから始まった

瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの第26回(江差~奈良)

 

第19回までは「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの全国版」を再構成したものです。

 

 第26回(江差ー奈良市

 

   江差町の横山家8代目の横山敬三氏が、北海道で広めた味自慢の「ニシン蕎麦」について、奈良女子大学の横山弘名誉教授にお話をお聞きしました。

 明楽みゆき氏のFM番組で「ニシン蕎麦」についてゲストの方のお話があったからだった。

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 (江差での北前船寄港地フォーラムで2016年11月)

 江差出身の横山弘氏にお会いする前に、行ったのが春日大社

 1キロ程続く参道の両側には、常夜燈がぎっしりとあり、
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ここには、文化期(1805~17)の小豆島の常夜燈があった。
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横山氏からJR奈良駅前でニシン蕎麦が北海道で広まった経緯等を教えて頂いた。

 横山氏は北前船や横山家への熱い想いを熱く語り、気がついたら5時間も話していた。

 横山氏の『北前船にかかる論考 考察集』は、全国北前船研究会設立30周年を記念して発行されたものです。

 

 

北前船時代の江差の網元文化横山弘氏

 全国北前船研究会顧問

  

  江差の繁栄については、古松軒の記録を50年さかのぼる元文二年(1737)年の板倉源次郎の『北海随筆』に、「江差松前第一の繁栄地なり」の記述があり、宝暦十一年(1761)の幕府の巡見使榊原職尹に陪従して松前地方に至った宮川直之の『奥羽並松前日記』(家蔵の写本)を紹介している

 

 十八世紀に入るころには、江差の繁栄は、観るべき段階に達していたわけだが、交易品の中では、「鯡」すなわち、アイヌ語に由来するといわれる「ニシン」の比重が次第に増していったことが背景にある。

 

 松前の商権は、近世初期には、百戦錬磨の近江商人に握られていたが、ニシン景気で沸き立つ松前江差に北陸の庶民の二三男が活路を求めて、あるいは、「マツマエ・ドリーム」を夢見て、「北前船」ルートで波濤を越えて渡ってきた。


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(横山氏は、右から4番目の方、左から4番目の方が土屋氏)

 我が家の初代、「能登国珠洲郡日置村字狼煙の惣向宗兵衛次男文四郎」も、明和六年(1769松前江差に至り、かくして、現在で8代、江差に住み着いたのである。江差の古い家には、能登半島特に奥能登にルーツをもつものが相当ある。

 

 来江前の出身地としては、狼煙、寺家、蛸島、正院など、現在の珠洲市海浜集落が挙げられる。(江差には、能登出身者の同郷会「能登会」があって活動している。)

 上述の奥能登以外にも、能登半島全域からの出身者が相当数にのぼることは、当然、推定されるが、渡島半島の各地、「松前の三湊」と称された江差、福山、箱館とその周辺各地の渡道後数世代続く古い家の実態調査が全面的、詳細に行われたならば、いろいろ興味ある事実が明らかになるであろうが、かかる調査・統計は、二十一世紀の現在まで十分になされてはいない。

 種種の条件の制約から、今後は、ますます困難であろう。

 「北前船」時代の終焉からすでに百年以上の年月が経過しており、古老の死去、この間の各地の人口流動など、実態究明を困難にする要素は年々増大、深刻になってしまった。歴史がどんどん時間の闇のなかに消えていくのである。
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 江差が最後のニシン漁に沸いたのは、大正二年(1913)のこととされる。

 『東遊記』の書きとどめた天明年間、1788年の江差の繁栄はしばらく置き、明治中期のかもめ島からの撮影とされる古写真には、江差の海岸に沿って、「羽出し」・土蔵を伴ったニシンの網元、廻船問屋の建物が、なお三、四十軒ほど見える。

 

  ニシンが江差沿岸から姿を消すと、網元、廻船問屋は、ニシンの夢を忘れられないものは、本拠を「下場所(江差以北のニシン場)」に移して住み慣れた江差の家をたたむ。残ったものは、転業をやむなくされる。(我が家は後者で、米問屋に転進した。)

 
f:id:kitamae-bune:20180914114314j:image江差横山家)

北海道指定有形民俗文化財1963年指定。

 初代横山宗右衛門(1748年能登の国、現石川県珠洲市生まれ)より現在まで8代、約250年代北海道江差にて、漁業、廻船問屋、商業を営んできた。

 

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わたしが中学生であった昭和二十年代、1950年代までは、なかば廃屋と化したニシン場以来の建築・土蔵などが江差海岸にそれでも数軒は往時の面影をとどめて残っていた。

 北海道史の重鎮で知られた北海道大学の故・高倉新一郎教授(1902—1990)は江差の実地調査にこられ、ニシン場以来の遺構が危機に瀕しているのを憂えて、ニシン場以来の建築群、いわゆる「網元建築」とニシン場以来の家具、調度、生活用品、古文書などが一括して残されていた我が家をさしあたり保存の要ありとされます。

 

高倉教授の示唆もあって、昭和38年12月24日付けで、「北海道指定有形民俗文化財」の指定を受けるに至った。

以来、道内道外の大学・研究機関・教育委員会などから数次にわたって調査・研究の対象にされたが、調査は概して特定の項目・領域に限られ、タイムカプセルともいうべき北海道指定文化財「横山家」の全貌は、今後の調査・研究に待つ部分が少なくない。

 

    以下には、タイムカプセル「横山家」に残る「北前船」交易によってもたらされた文物、代々の当主の人事交流によって今に残る名人の書画など、広い意味の文化遺産の一部を心覚え風に書きとめておく。

 

 文化遺産には、「北前船」によって「内地」の各地から運ばれてきた生活レベルの品々、仮に「第一類文化遺産」と名づけるものと、代々の当主の人事交流によって今に残る名人の書画・文芸作品、仮に「第二類文化遺産」と名づけるもの、の二種があります。

 

 第一類文化遺産

  1. 白砂糖樽 (「大極上白砂糖」杉樽。 一貫詰、二貫詰。大坂心斎橋・大阪北堀江の砂糖問屋の杉樽各一個。)
  2. 鞆の浦の「保命酒」陶器壷
  3. 尾道の酢徳利(壷の表面に「ヲノミチ ャマヲ」の手書き商標。)
  4. 手水鉢(島根・木待産。)
  5. 笏谷石(敷石・土蔵の土台。福井特産の笏谷石は、北前船バラストを兼ねて蝦夷地に運ばれた。江差の至るところに今も見られる。三井紀生氏の『越前笏谷石』三部作参照。)
  6. 番傘(すべて敦賀産。先年敦賀で調査したが、傘の包装紙に記されるメーカーは一軒も現存しなかった。)
  7. 和蝋燭(敦賀産。大きな木箱に墨書された問屋は現存しない。敦賀市教育委員会郷土史家が先年調査に来られ、報告書を刊行された。)第二類文化遺産
  8.  
  1. 詩画軸一幅(蠣崎波藍の山茶花の絵に頼三樹三郎の題詩。『北海道新聞』1989年11月26日号に紹介記事がある。)
  2. 南条文雄自作詩一幅。(南条博士(1849—1927)は、明治四年越前南条郡南条町真宗大谷派憶念寺南条神興の養子となり、本山の命で英国に留学、オックスフォード大学のマックス・ミューラー博士に師事して梵語仏典研究に努め、日本の近代仏教学の鼻祖と呼ばれる大学者。晩年の著書『懐旧録』(平凡社東洋文庫」収)に拠れば、本山の北海道順化に一度ならず渡道、明治31年には、函館、江差、札幌の三別院において布教。詩は「五歳在牛津」で始まる五律『在英寄懐友人』。文雄には、漢詩集『航西詩稿』『碩果詩草』がある。碩果は号。)

 

参考資料『東遊雑記』(古川古松軒)
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   江差の近世の繁栄は、古川古松軒の『東遊記』にみるとおりで、幕府の巡見使の随員という立場は、読者の一定の考慮も必要であろうが、視点にバイアスは看取できず、記述は当時の江差の実態をほぼ正確に伝えていると思われる

 以下は、天明八年、1788年、幕府の巡見使に随行して東北地方から北海道に至った古川古松軒(1726—1807)の紀行文である。 
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 「江指という浦は至ってよき町にて、家数千六百余軒、端はずれに至るまでも貧家と見ゆる家はさらになし。浜辺には土蔵幾軒ともなく建てならべ、諸州よりの廻船、この日見るところ大小五十艘ばかり、町に入り見れば、呉服見世・酒見世または小間物屋、この外諸品店ありて、物の自由なることは上方筋にかわらず。御巡見使拝見に出でし貴賎・老若の男女を見れば、縮緬の単物に白あけ上がりの染め抜きの紋などを付けて、人物・言語もよく、辺鄙の風俗なし。

 

 委しく聞くに、近江・越前より出店数多ありて、上方よりのもの多し。そのうえ長崎の俵物問屋湊ゆえに、上方の風俗に習いてかくのごとしといえり。

 このたび江戸を出でしよりも、家居・人物・言語とも揃いてよき所は、この江指町と松前の城下に及ぶ所さらになし。

 奥羽は寒国にして瓦よわきとて瓦ぶきの家はなかりしに、この町には瓦ぶきの家も土蔵もあり、如何のことにてこの所も寒強き地に瓦をもちゆることとおもいしに、何れも上方焼きの念入れし瓦ゆえに、寒風のつよきにも損せずという。

 (中略)世にいう、松前の地にては昆布を以て屋根を葺きし所もありとて、甚だあしき地のように風聞し、人物・言語も日本の地よりしては大いにおとりしことと人びと思いしことなるに、かかるよき町のあらんとは思いも寄らず、見るものごとにあきれしことなり。これらをもって天地の間至らざる地ははかるべからず。(中略)
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 初めにも記せしごとく、この浦は何によりて富饒の地なるや、家居至ってよし。諸品の自由なること上方に劣らず、返す返すも不審ある所なり。

 御巡見使夜に入りて着し給うに、家ごとに提灯を数かず出せしを見しに、出来合いの提灯にあらず。家に入りて見れば、掛物はいうに及ばず、襖・屏風に至るまでも京・大阪の名ある書画多し。

 

 何国にても金銀のたくさんなる所は、万事の足ることと見えたり。この浦ばかりにも諸国の大船幾艘もあり。何を積みて来り、何に交易して帰ることにや、その大いなることはかるべからず。」(下略)

  古川古松軒『東遊雑記』巻之五、巻之六)平凡社東洋文庫」版)