古式捕鯨と塩釜第13回 (長門の捕鯨と塩田2)
入り浜式で塩田が出来なかった長門(現長門市)の塩の入津について、長門市史歴史編にある塩入津高(1844年)と 坂越の廻船問屋奥藤家の下筋御客帳(1833年)と大西家の「船賃銀定法」(1730年代)から探った。
下記の赤穂藩の坂越奥藤家の下筋客船帳から、長門から天保年間の1年間に262艘が坂越港に入港しており、恐らく赤穂の差塩を仕入れにきていたことが考えられ他の地域と比べても長門は多いい。
出典『坂越廻船と奥藤家』の下筋客船帳(1833)
第1回で述べた長門の油谷久津から1年間に11艘が入港しており、この中に元禄年間に坂越から移住した久津奥藤家の船があったかもしれない。また仙崎からは27隻が入船していたが、捕鯨で賑わう通浦からの入船は僅か3隻。
長門市史歴史編長門の塩入津高(1844年)
長州藩には、瀬戸内海側の三田尻の他、隣接する下関市吉見地区に大きな塩田があったが、天保時代の史料(長門市史の入津量と坂越への入船記録)から半分程を遠い赤穂から買い付けていた。(一艘に200俵の塩を積だと仮定)
この2つの史料には11年の差があるが、いずれも通浦への塩の入津量が極端に少ない。
通浦の塩田について、早川氏は、「子供の頃はこの浜辺に小さな塩田があった」と話している。これは、恐らく揚浜式塩田で塩が大量に生産ができなかったことから、不足分を赤穂から仕入れていたと思われる。
坂越には奥藤家の他、3軒の廻船業者があり下記は18世紀坂越で一番の廻船問屋だった大西家の「船賃銀定法」の板書は「下筋御客帳」より100年前のものだが、大西家でも長門・千崎(仙崎)・ムカトク(向津具)と同じ地域に3つの港がある。
旧大西家の船賃銀定法
同じ地区に3つの港がある長門は、大西家にとっても重要な取引先だったようだ。
この資料から、元禄年間(1688-1794)に長門に移住した奥藤家となんらかの影響したことが考えられる。
また下記資料は18世紀の坂越廻船4件の廻送先だが、捕鯨で賑わう長門の他、五島、平戸、壱岐、唐津、大熊野(太地町)、尾張が見え、その多くは捕鯨が盛んな地域に差塩を運んでいたのがわかる。
出典 坂越廻船と奥藤家
古式捕鯨と塩釜は今回で最終回になりました。
次回は、その後の捕鯨と塩釜について紹介する予定です。
この連載は、2024年2月(財) 日本鯨類研究所から出版された鯨研通信500号の「古式捕鯨と塩釜」に(財) 日本鯨類研究所発行の『日本鯨紀行』の写真を使い解説を加えたものである。