瀬戸内坂越の廻船と赤穂塩

それは神社・日本100名城巡りから始まった

古式捕鯨と塩釜(第2回)

●塩釜から見える鯨料理①

この連載は、2024年2月(財) 日本鯨類研究所から出版された鯨研通信500号に写真や解説を加えたものである。

             提供 (財) 日本鯨類研究所

 古式捕鯨が終わる明治後期まで、塩の塩分濃度が塩の品質の物差しになっていた。塩分濃度が高く苦汁が少ないのが真塩で、苦汁を多く含み塩分濃度が低いのが差塩とよばれ、それはかん水を煮詰める塩釜でその差ができていた。

      復元された差塩と真塩

鉄釜は、かん水を弱火で時間をかけて煮詰めなければ焦げてしまうのに対して、石釜は、少ない燃料で高い温度で塩を煮詰めることができた。このかん水を煮詰める時間と火力の差から、塩に含まれる苦汁成分や、塩分濃度に差ができた。鉄釜では塩分濃度が90%の高品質で苦汁が少ない真塩が出来た。差塩は苦汁を多く含み塩分濃度が70%以下のものが多かった。

  専売制の後塩を納入していた帳簿(赤穂市立民俗資料館)

明治38年政府は、日露戦争の戦費調達の為に塩の専売制を実施し塩の品質を向上させる為、塩の等級を1~5まで決め、塩化ナトリウムの純度90%以上を1級とし5級の70%を最低とし政府が買い入れ価格を決めた。この為、塩分濃度が70%以下の差塩は生産が出来なくなり、瀬戸内海でも石釜から鉄釜に代わっていった。(『日本塩業史上』日本専売公社編)

 日本専売公社赤穂支局(赤穂塩務局)事務所跡 (赤穂フォト)

 

17世紀半ばから瀬戸内海全域で使われていた石釜は、近代捕鯨の時代に入る頃には鉄釜が使われるようになっていた。

 

一方の鯨については次回に続く