瀬戸内坂越の廻船と赤穂塩

それは神社・日本100名城巡りから始まった

古式捕鯨と塩釜第4回(塩釜から見える鯨料理③)

古式捕鯨と塩釜第4回(塩釜から見える鯨料理③)

  • この連載は、2024年2月(財) 日本鯨類研究所から出版された鯨研通信500号の「古式捕鯨と釜釜」に新たに写真や解説を加えたものである

   出典 日本捕紀行(北前船と鯨)より

 たたらの産地だった内陸の会津は、中世の時代から、温泉水を鉄釜で煮詰め真塩を造っていた。この真塩は、将軍家にも献上し明治に入ると天皇家に献上していた。この真塩が会津の鯨料理のどの場面で使われたかは今後の調査課題だ。北前船で新潟港に運ばれた荒巻鯨は、高瀬舟等で会津にも運ばれ、会津風に調理され郷土料理の一つとなり、庶民にも晴れの日に鯨が食できるようになった。会津の鯨料理については上の写真の『日本鯨紀行』(北前船と鯨)でご覧ください。

 

江戸時代に入ると慶長11年(1606)紀州太地町で古式捕鯨が始まった。

 出典 日本捕紀行(西日本編)

 

 この翌年から始まった朝鮮通信使に、紀州徳川家来日の度毎に、音物として塩鯨を贈っている。この音物には、紀州藩の真塩が使われていたのが鉄釜の分布図からわかる。

 

出典 日本製塩技術史の研究 鉄釜の分布図

 

その後、大坂と江戸を結ぶ海上航路・南海路が開設され、西廻り航路等の輸送網が確立する。加えて入浜式塩田が瀬戸内海全域に広がり、塩蔵された鯨肉が遠く離れた港に運ばれ庶民にも食されるようになる。

    出典 赤穂市歴史博物館 図録

これについてシーボルト『江戸参府紀行』で新鮮なうちに日本中の港に運ばれたと記している。

 

 魚類を塩蔵し荒巻にして運んだ記録は、応永14年(1407)紀伊で鯛・鰹を内蔵を抜き塩を振り、竹などで荒く巻いて遠くに運んだ記録がある(『日本の食と酒』)。

 塩蔵し荒巻にして遠くまで運んでいたのは室町時代以前から広く浸透していたようで、鯨肉もこの方法で、北前船日本海側の各港に運んでいたことが考えられ、鯨の食文化が日本海側に多く残っている。

   出典 日本捕紀行(北前船と鯨)より

鶴岡には坂越の廻船が文化文政時代まで差塩を運んでいた・ウィンドチャイム、テキストの画像のようです

 赤穂塩で財をなした坂越の商人が禅寺寄進した釣金(日本遺産構成文化財

  次回の第5回は朝鮮通信使の饗応料理から