瀬戸内坂越の廻船と赤穂塩

それは神社・日本100名城巡りから始まった

古式捕鯨と塩釜第1回(はじめに)

古式捕鯨と塩釜第1回(はじめに)

これは、2024年2月 日本鯨類所から出版された鯨研通信500号に写真や解説を加えたものである。

 

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                     瀬戸内坂越から 矢竹 考司
●はじめに                       
 古式捕鯨時代、鯨の塩蔵や料理に使われた塩に興味をもったのは以下の経緯からである。

2015年から赤穂市の坂越まち並み館を拠点に、かつて坂越の廻船が活躍した72地域に残る石造物の調査、その地域の専門家に取材するのがライフワークになっていた。
そんな中2019年春、長門市油谷久津の奥藤家を、長門市教育委員会生涯学習文化財課・上田穰氏と訪問し、話を聞く機会があった。


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筆者.上田氏.奥藤氏

久津の海岸の大避神社近くに住んでいる久津奥藤家は、元禄年間(1688~1704)に坂越奥藤家(酒蔵業や廻船業を営む大店)の親族の一人と思われる方で、坂越から久津へ移住していた。

 

久津大避神社(大避神社は坂越から移住した人達が創建。坂越にも大避神社がある) 

 久津奥藤家は油谷でも廻船業を営み、地元久津の有力者であったことを上田氏から頂いた「久津奥藤博家文書」のコピーで確認した。この文書は、故奥藤博氏が昭和27年(1952)に中央水産研究所に寄贈したものだった。

 

 それから4年2023年春、久津奥藤家の末裔の方々が坂越に来られ、その方から元禄時代、川尻(油谷)では捕鯨が盛んになり、その加工に使った塩は奥藤家が扱った赤穂塩だったと伺った。この久津奥藤家の移住と捕鯨が盛んになる時期が重なっていたのは、偶然とは思えなかった。

その直後、『日本鯨紀行・北前船と鯨』(一般財団法人日本鯨類研究所編)の取材を受けた、坂越まち並みを創る会の寺井秀光会長から、下記のリーフレットを頂いた。

 

『日本鯨紀行・北前船と鯨』(財)日本鯨類研究所 提供
 これをきっかけに、東京中央区にある日本鯨類研究所に伺い、鯨と塩のついてお聞きした。これまでに鯨と塩についての研究がないと知り、近代式捕鯨が始まるまで瀬戸内海で使われていた石釜と、奈良時代から能登で使われていた鉄釜から考察した。

 

 続く