古式捕鯨と塩釜(塩釜から見える鯨料理)

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第14回 古式捕鯨と塩釜の終焉

第14回古式捕鯨と塩釜の終焉(最終回)

 明治11年、子連れのセミクジラを追いかけていた和歌山太地鯨方の船団は強風に見舞われ111人が亡くなった。この悲惨な事件を契機に江戸初期から続いていた太地の古式捕鯨は衰退していく。この悲劇を描いたのが和歌山出身の歴史作家津本陽の『深重の海』である。その太地から伝わった西海地方や長門の古式捕鯨は巨大産業になっていたが、ノルウェーの西洋式近代捕鯨にかわっていく。

   この流通の担い手だった北前船も鉄道、蒸気船の発達で衰退、同じ明治後期だった。

   出典 日本鯨類研究所『日本鯨紀行』(西日本編

 鯨の塩蔵に使われていた塩は、明治に入り、にがり成分を含まない塩分濃度が高い岩塩が外国から流入していた。江戸時代以前から、塩の品質を塩分濃度に重点を置いていたことから、政府は海外の岩塩の流入に、日本の塩田に危機感を持っていたようだ。

 

 

 当時、塩分濃度はにがりは、かん水を煮詰める塩釜でその差ができていた。

 すなわち鉄釜では、かん水を弱火で時間をかけて煮詰めなければ焦げてしまうのに対して、石釜は、少ない燃料で高い温度で塩を煮詰めることができた。このかん水を煮詰める時間と火力の差から、塩に含まれる苦汁成分や、塩分濃度に差ができた。鉄釜では塩分濃度が90%の高品質で苦汁が少ない真塩が出来た。差塩は苦汁を多く含み塩分濃度が70%以下のものがほとんどだった。 

 

明治38年政府は、日露戦争戦費調達の為に塩の専売制を実施しと同時に日本の塩産業発展と品質を向上させる為、塩の等級を1~5まで決め、塩化ナトリウムの純度90%以上を1級とし5級の70%を最低とし政府が買い入れ価格を決めた。

 この為、塩分濃度が70%以下の差塩は生産が出来なくなり、瀬戸内海でも石釜から鉄釜に代わっていった。(『日本塩業史上』日本専売公社編)

 

この にがり成分が少なく塩分濃度が高い塩が良質塩の考えをベースに専売公社は、にがりを含まない塩分濃度が高い塩を長きにわかたり研究をしていた。

ついに塩化ナトリュウ含有量が99.5%の食塩を海の水からつくるイオン交換膜式を世界で初めて成功し昭和46年に商品化する。

 

  出典 日本たばこ産業博物館 

 塩は、高血圧に悪いとされ減塩がさけばれているが、悪いのは塩化ナトリュウムで、にがり成分は血圧を下げる役割をしている事が、まだ分かっていなかったのかも知れない。

    赤穂の天塩

 塩田の廃止から各地で自然塩運動が起こっていた。いち早く苦汁を加えた塩を赤穂市ユニチカ食品事業部(後の赤穂化成)が、「赤穂の天塩」と名付け、昭和48年(1971)6月政府から認可を受け10月から販売した『塩・いのちは海から』。

 その後、1997年塩の専売制は廃止され、全国でにがりを含んだ自然塩が塩釜で生産できるようになった。

 

 これまで14回にわたり「古式捕鯨と塩釜」の連載をしてきましたが、鯨関係の写真は、一般財団法人日本鯨類研究所が発行した『日本捕鯨紀行』から掲載しました。

 このリーフレットを発行した(財)日本鯨類研究所と、これを企画制作した神奈川県の(株)プランニングアドゥ代表取締役玉井恵氏に心から感謝申し上げます。

 

 

 

古式捕鯨と塩釜第13回 (長門の捕鯨と塩田2)

古式捕鯨と塩釜第13回 (長門捕鯨と塩田2)

 入り浜式で塩田が出来なかった長門(現長門市)の塩の入津について、長門市史歴史編にある塩入津高(1844年)と 坂越の廻船問屋奥藤家の下筋御客帳(1833年)と大西家の「船賃銀定法」(1730年代)から探った。

 日本鯨類研究所『日本鯨紀行』(西日本編・長門)より

下記の赤穂藩の坂越奥藤家の下筋客船帳から、長門から天保年間の1年間に262艘が坂越港に入港しており、恐らく赤穂の差塩を仕入れにきていたことが考えられ他の地域と比べても長門は多いい。

 

 

出典『坂越廻船と奥藤家』の下筋客船帳(1833)

 第1回で述べた長門の油谷久津から1年間に11艘が入港しており、この中に元禄年間に坂越から移住した久津奥藤家の船があったかもしれない。また仙崎からは27隻が入船していたが、捕鯨で賑わう通浦からの入船は僅か3隻。

 

長門市史歴史編長門の塩入津高(1844年)
 長州藩には、瀬戸内海側の三田尻の他、隣接する下関市吉見地区に大きな塩田があったが、天保時代の史料(長門市史の入津量と坂越への入船記録)から半分程を遠い赤穂から買い付けていた。(一艘に200俵の塩を積だと仮定)
 

 この2つの史料には11年の差があるが、いずれも通浦への塩の入津量が極端に少ない。

 日本鯨類研究所『日本鯨紀行』(西日本編・長門)より

 

 通浦の塩田について、早川氏は、「子供の頃はこの浜辺に小さな塩田があった」と話している。これは、恐らく揚浜式塩田で塩が大量に生産ができなかったことから、不足分を赤穂から仕入れていたと思われる。

 

 坂越には奥藤家の他、3軒の廻船業者があり下記は18世紀坂越で一番の廻船問屋だった大西家の「船賃銀定法」の板書は「下筋御客帳」より100年前のものだが、大西家でも長門・千崎(仙崎)・ムカトク(向津具)と同じ地域に3つの港がある。

    旧大西家の船賃銀定法

 同じ地区に3つの港がある長門は、大西家にとっても重要な取引先だったようだ。

この資料から、元禄年間(1688-1794)に長門に移住した奥藤家となんらかの影響したことが考えられる。

 また下記資料は18世紀の坂越廻船4件の廻送先だが、捕鯨で賑わう長門の他、五島、平戸、壱岐唐津、大熊野(太地町)、尾張が見え、その多くは捕鯨が盛んな地域に差塩を運んでいたのがわかる。
    出典 坂越廻船と奥藤家

 

 古式捕鯨と塩釜は今回で最終回になりました。

 次回は、その後の捕鯨と塩釜について紹介する予定です。

 この連載は、2024年2月(財) 日本鯨類研究所から出版された鯨研通信500号の「古式捕鯨と塩釜」に(財) 日本鯨類研究所発行の『日本鯨紀行』の写真を使い解説を加えたものである

古式捕鯨と塩釜第12回 (長門の捕鯨と塩1)

古式捕鯨と塩釜第12回 (長門の捕鯨と塩田1)

編集

古式捕鯨と塩釜第12回 (長門捕鯨と塩1)

長門は、9回で紹介した平戸藩と並び長州藩捕鯨基地として栄え、江戸初期から明治後期まで捕鯨を行う大規模な組織があった。

日本鯨類研究所『日本鯨紀行』(西日本編)より

長門捕鯨は、瀬戸崎(仙崎)・通(かよい)・川尻.向津具で元禄年間に盛んになり、村田清風が天保年間(183145)に調査した記録『防長風土注進案』でも詳しく述べている。

 鯨を網で囲み銛で突きとる捕鯨は、明治中頃、外国の捕鯨技術に影響を受け、近代化が迫られていた。ノルウェー捕鯨砲を使った近代捕鯨術を最初に取り入れた会社が長門仙崎に設立された。

その後、合併が繰り返されクジラ肉の冷蔵、加工、流通の拠点として発展した下関が「近代捕鯨発祥の地」と知られるようになった。

 

 

説明がありません

 長門仙崎にある近代捕鯨の発祥地の看板 (長門市教育委員会 上田稔氏提供)

 一方、長門の塩田は、山口県文書館が公開した文書に油谷町小田浜で製塩が行われていたことが述べられ、『長門市史歴史編』には、寛永の検地(1624)で長門地区の塩田は面積が137町で塩の石高は4344石と掲載されている。

 

 この検地から22年、赤穂で大量生産出来る入浜式塩田が始まり、その後50年程で瀬戸内海の10州にこの新しい方式の塩田が広がった。

 しかし、入り浜式塩田に不可欠な潮の干満差90センチの北限が、長門からわずか50キロ程南の日本海の下関北部だったことから、長門では入浜式塩田が出来なかった。

 長門の南西の下関北部の吉見は、古くから古式入浜式製塩があった地で、入浜式塩田は文政2年(1819)から石釜で煮詰め差塩をつくっていた。北陸・山陰からも塩を買い付けに来ていた。『吉見と塩田物語』。

 

吉見塩田があった浜(まちづくり協議会の越智良和会長に案内で撮影2023年)

 川尻(油谷)でも捕鯨が盛んになる元禄年間に、坂越の廻船問屋と思われる一族が移住していた。久津大避神社の再建にあたり油谷奥藤家から坂越奥藤家に資金提供を依頼した書簡が中央水産研究所の「久津奥藤博家文書」にある。(1850年代)

 

 坂越にもある久津の大避神社(2019年5月)

 長門の塩について、次回の最終回(長門捕鯨と塩2)を坂越の奥藤の下筋客船帳から紹介する。

  • この連載は、2024年2月(財) 日本鯨類研究所から出版された鯨研通信500号の「古式捕鯨と釜」に(財) 日本鯨類研究所発行の『日本鯨紀行』の写真を使い解説を加えたものである

 

 

 

 

 

古式捕鯨と塩釜第11回 赤穂藩の塩釜2

 

 古式捕鯨と塩釜第11回 赤穂藩の塩釜2

 能登で 最初赤穂の口径が広い浅釜を藩に使用を願いを出したのは道下村(現輪島市)の鋳物師丹次で寛政8年(1796)だった 。翌年にはこの浅釜の使用願いがあいついだ。 その後。赤穂鋳物師福嶋栄左衛門が、天保5年(1834)輪島の久保喜兵衛宛に鉄釜を移出している『赤穂市史第5巻』。喜兵衛は銭屋五平衛と並ぶ北前船で活躍した人物だった。

 日本鯨類研究所『日本鯨紀行』(北前船と鯨)より

 瀬戸内海で、赤穂藩だけが鉄釜を継続的に使えたのは、元禄赤穂事件まで赤穂藩領だった千種川上流の高田中野(現上郡町)の鋳物師・中井幸右衛門久次に修業した大嶋栄左衛門の存在が大きい。(『大嶋黄谷生誕200年記念展』)

 

  赤穂小学校の前にある大嶋黄谷の碑

栄左衛門は「文化11年改諸国鋳物師名記」に掲載され全国に知られた鋳物師だった。この他にも、鋳物師が活躍して鉄釜での塩の生産をさえていた。

  

 

  西浜塩田の塩釜神社は1909年塩屋荒神社に合祀された(塩屋荒神社の案内版)

 

 能登はたたらの産地であったことから、奈良時代から鉄釜を使っていた歴史がある。江戸時代に入ると、中井(現穴水町)で造られた鉄釜を加賀藩が買い取り、2000基程を塩浜領民に貸藩の財源にしていた。江戸中期以降、高岡から中井の鉄釜を模倣した鉄釜が流入していると、高岡産の釜が使わないように奉行所に願いをだしていた。しかし、高岡は加賀藩2代藩主の時代から鋳物を育成保護していたことから藩は黙認した。18世紀に入り、高岡の鋳物師達は、関西方面の進歩した様式の浅釜を参考に製作し、能登4郡の塩田に売り込んでいた(『高岡銅器史』)。この関西方面とは赤穂藩の事である。

一番上が赤穂の鉄釜を参考にした能登の鉄釜 出典 能登の揚浜塩田 

 

 藩はこの浅釜の普及を図るため金沢で製造し貸与を始めている。この浅釜は底が広く燃費効率が良かったことから、一度に焼き上げる塩の量も多く江戸後期、能登の塩生産が増えたのは、この浅釜の普及によるところが大きかった『能登の揚浜塩田』。

 

 赤穂の塩田の東西に流れてる千種川上流の上郡がたたらの産地だったことも、鉄釜が継続的に使える条件が揃っていた。

  (次回は長門捕鯨と塩)

  • この連載は、2024年2月(財) 日本鯨類研究所から出版された鯨研通信500号の「古式捕鯨と釜」に(財) 日本鯨類研究所発行の『日本鯨紀行』の写真を使い解説を加えたものである

古式捕鯨と塩釜第10回 (赤穂藩の塩釜1)

古式捕鯨と塩釜第10回

 鉄釜と石釜で塩づくりをしていた赤穂藩

 北前船で賑わった新潟港は、長岡藩領だったが薩摩藩の密貿易を取り締まりをしなかった事から、幕府直轄地になってしまう。港の権益で豊かだった長岡藩はたちまち財源難に陥いる。

出典(財) 日本鯨類研究所発行の日本鯨紀行(北前船と鯨)

 この財政難を打破したのが藩主河合継之助だった。

 継之助は長岡藩の財政を立て直す為、備中松山山田方谷に学んでいる。継之助、唯一の書『塵壺』は、岡山まで行った時の道中記がある。この中で赤穂藩の西浜塩田に立ち寄り、石と金(かね)の釜で塩づくりをしていたと述べている。

 これについて2018年、新潟県長岡市北前船寄港地フォーラムで基調講演をされた「河合継之助記念館」の館長稲川明雄氏に、その後のレセプションで伺った。


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河合継之助記念館・稲川明雄館長と坂越のまち並みを創る会の方々と筆者
  赤穂ロイヤルホテルで(2018年)

 

 継之助は、赤穂藩の塩田で金(かね)と石の釜で塩造りをしているのを見て、金の釜を例に、付加価値を加えたブランド化が大きな利益を生むと気づき、その後の藩の財政改革の参考にしたと稲川氏は話していた。

               大正時代の西浜塩田 (坂越まち並み館で)

  赤穂藩では、千種川を挟んで東浜塩田では石釜で差塩を、西浜塩田では鉄釜と石釜の両方で真塩と差塩を生産していた。 
 石釜は、入浜式塩田の伝播とともに瀬戸内10州の各地に普及し、作られた差塩は、大俵に入れ東北や江戸に北前船や塩廻船で運ばれていた。

 

瀬戸内海の塩が日本全体の塩生産の8割以上を占めたのは、気候や地形に加え、大量のかんすいを短時間で煮詰めることが出来た石釜の存在が大きい。

 花崗岩で造られた石釜は、鉄釜と比べ燃料費を2倍以上の節約できたていたことが『近世日本の塩』の表で確認できる

 『近世日本の塩』から石釜と鉄釜のコストの違い

次回は、赤穂の鉄釜が能登でも参考にしていた話である。

  • この連載は、2024年2月(財) 日本鯨類研究所から出版された鯨研通信500号の「古式捕鯨と釜」に(財) 日本鯨類研究所発行の『日本鯨紀行』の写真を使い解説を加えたものである

古式捕鯨と塩釜第9回(平戸藩の財源(捕鯨と塩田))

 

平戸藩の財源(捕鯨と塩田)から平戸の塩田

東シナ海五島藩平戸藩では藩に点在した島々の島民は、産物の魚と塩で生計をたてていた。

 

 出典(財) 日本鯨類研究所発行の日本鯨紀行(西日本編)

 

 これについて宣教師ルイス・フロイス(1532-1597)の『日本史』で以下のようにのべている。

 肥後等の国々から多数の船が来て、米や味噌醤油などの食料品と交換に島で採れた塩や塩魚を船に積載して帰っていった。

 平戸藩に隣接している五島藩だった『上五島町郷土史』には、中世文書であるが「御かな塩」という語がみられ、塩釜は、近世においても鉄釜が使用され真塩を生産していたようだとある(『近世日本の塩』)。

この「古式捕鯨と塩釜」を読まれた平戸市生月町博物館の中園成生館長から五島藩の塩について以下のようなメールをいただいた。

 中世〜戦国時代、五島の竈百姓が大量の木材を費してひたすら海水を煮詰める方法で鉄釜で塩を生産していた。この塩は肥後と肥前の国に移出した他、五島の好漁場で漁獲された魚を 遠隔地流通に適した塩蔵品にも使われた。竈百姓のひたすら煮詰める非効率な製塩技術は、江戸時代に入ると廃絶。その後五島藩は、三田尻から塩田の技術者を招聘した。『五島編年史

一方、 平戸藩では赤穂藩で入浜式塩田が開発した11年後の1657年、平戸藩九十九島に近い日野(現佐世保市)に、赤穂尾崎の七族が入植して塩田開発をしている。

 

 

      日野塩田  佐世保在住 宮﨑勝秀氏提供

  中央下に日野が見える  宮﨑勝秀氏提供


 4代藩主・松浦鎮信(1622-1703)から土地と薪用地の島を拝領し、一帯は日野塩田となった(『日野塩田14-16』)。この日野塩田は18世紀に入り新田に代わった為、捕鯨との関わりは不明である。

 この後、寛政3年(1791)、平戸藩の事業として大手原塩田(現佐世保市)が一番浜から八番浜まで大規模な入浜式塩田が作られた。この塩田は明治政府の塩の専売制の後、廃止されたことから石釜で差塩を作り、鯨の塩蔵に使われていたと考えられる。そ

れは古式捕鯨が衰退する頃だった。

 前述の中園成生氏からこの大手原塩田の石積造りに参加したのが、生月島の人達だと話していた。生月島は日本一の鯨組があり、大量の塩が必要だったことから塩田開発を手伝ったと考えられる。

 

 

 上の表から、坂越廻船は18世紀末頃まで、五島や平戸の周辺の島々に差塩を廻漕した記録があるが、平戸藩の大手原・五島で入り浜式塩田完成後は平戸・五島には塩を運んだ記録は見られない。

 

次回は赤穂藩の鉄釜と石釜の塩田についてである。

  • この連載は、2024年2月(財) 日本鯨類研究所から出版された鯨研通信500号の「古式捕鯨と釜」に(財) 日本鯨類研究所発行の『日本鯨紀行』の写真を使い解説を加えたものである