古式捕鯨と塩釜第9回(平戸藩の財源(捕鯨と塩田))
東シナ海の五島藩、平戸藩では藩に点在した島々の島民は、産物の魚と塩で生計をたてていた。
出典(財) 日本鯨類研究所発行の日本鯨紀行(西日本編)
これについて宣教師ルイス・フロイス(1532-1597)の『日本史』で以下のようにのべている。
肥後等の国々から多数の船が来て、米や味噌醤油などの食料品と交換に島で採れた塩や塩魚を船に積載して帰っていった。
平戸藩に隣接している五島藩だった『上五島町郷土史』には、中世文書であるが「御かな塩」という語がみられ、塩釜は、近世においても鉄釜が使用され真塩を生産していたようだとある(『近世日本の塩』)。
この「古式捕鯨と塩釜」を読まれた平戸市生月町博物館の中園成生館長から五島藩の塩について以下のようなメールをいただいた。
中世〜戦国時代、五島の竈百姓が大量の木材を費してひたすら海水を煮詰める方法で鉄釜で塩を生産していた。この塩は肥後と肥前の国に移出した他、五島の好漁場で漁獲された魚を 遠隔地流通に適した塩蔵品にも使われた。竈百姓のひたすら煮詰める非効率な製塩技術は、江戸時代に入ると廃絶。その後五島藩は、三田尻から塩田の技術者を招聘した。『五島編年史』
一方、 平戸藩では赤穂藩で入浜式塩田が開発した11年後の1657年、平戸藩の九十九島に近い日野(現佐世保市)に、赤穂尾崎の七族が入植して塩田開発をしている。
中央下に日野が見える 宮﨑勝秀氏提供
4代藩主・松浦鎮信(1622-1703)から土地と薪用地の島を拝領し、一帯は日野塩田となった(『日野塩田14-16』)。この日野塩田は18世紀に入り新田に代わった為、捕鯨との関わりは不明である。
この後、寛政3年(1791)、平戸藩の事業として大手原塩田(現佐世保市)が一番浜から八番浜まで大規模な入浜式塩田が作られた。この塩田は明治政府の塩の専売制の後、廃止されたことから石釜で差塩を作り、鯨の塩蔵に使われていたと考えられる。そ
れは古式捕鯨が衰退する頃だった。
前述の中園成生氏からこの大手原塩田の石積造りに参加したのが、生月島の人達だと話していた。生月島は日本一の鯨組があり、大量の塩が必要だったことから塩田開発を手伝ったと考えられる。
上の表から、坂越廻船は18世紀末頃まで、五島や平戸の周辺の島々に差塩を廻漕した記録があるが、平戸藩の大手原・五島で入り浜式塩田完成後は平戸・五島には塩を運んだ記録は見られない。
次回は赤穂藩の鉄釜と石釜の塩田についてである。