古式捕鯨と塩釜(塩釜から見える鯨料理)

神社・日本100名城巡りから始まったストーリー

古式捕鯨と塩釜第11回 赤穂藩の塩釜2

 

 古式捕鯨と塩釜第11回 赤穂藩の塩釜2

 能登で 最初赤穂の口径が広い浅釜を藩に使用を願いを出したのは道下村(現輪島市)の鋳物師丹次で寛政8年(1796)だった 。翌年にはこの浅釜の使用願いがあいついだ。 その後。赤穂鋳物師福嶋栄左衛門が、天保5年(1834)輪島の久保喜兵衛宛に鉄釜を移出している『赤穂市史第5巻』。喜兵衛は銭屋五平衛と並ぶ北前船で活躍した人物だった。

 日本鯨類研究所『日本鯨紀行』(北前船と鯨)より

 瀬戸内海で、赤穂藩だけが鉄釜を継続的に使えたのは、元禄赤穂事件まで赤穂藩領だった千種川上流の高田中野(現上郡町)の鋳物師・中井幸右衛門久次に修業した大嶋栄左衛門の存在が大きい。(『大嶋黄谷生誕200年記念展』)

 

  赤穂小学校の前にある大嶋黄谷の碑

栄左衛門は「文化11年改諸国鋳物師名記」に掲載され全国に知られた鋳物師だった。この他にも、鋳物師が活躍して鉄釜での塩の生産をさえていた。

  

 

  西浜塩田の塩釜神社は1909年塩屋荒神社に合祀された(塩屋荒神社の案内版)

 

 能登はたたらの産地であったことから、奈良時代から鉄釜を使っていた歴史がある。江戸時代に入ると、中井(現穴水町)で造られた鉄釜を加賀藩が買い取り、2000基程を塩浜領民に貸藩の財源にしていた。江戸中期以降、高岡から中井の鉄釜を模倣した鉄釜が流入していると、高岡産の釜が使わないように奉行所に願いをだしていた。しかし、高岡は加賀藩2代藩主の時代から鋳物を育成保護していたことから藩は黙認した。18世紀に入り、高岡の鋳物師達は、関西方面の進歩した様式の浅釜を参考に製作し、能登4郡の塩田に売り込んでいた(『高岡銅器史』)。この関西方面とは赤穂藩の事である。

一番上が赤穂の鉄釜を参考にした能登の鉄釜 出典 能登の揚浜塩田 

 

 藩はこの浅釜の普及を図るため金沢で製造し貸与を始めている。この浅釜は底が広く燃費効率が良かったことから、一度に焼き上げる塩の量も多く江戸後期、能登の塩生産が増えたのは、この浅釜の普及によるところが大きかった『能登の揚浜塩田』。

 

 赤穂の塩田の東西に流れてる千種川上流の上郡がたたらの産地だったことも、鉄釜が継続的に使える条件が揃っていた。

  (次回は長門捕鯨と塩)

  • この連載は、2024年2月(財) 日本鯨類研究所から出版された鯨研通信500号の「古式捕鯨と釜」に(財) 日本鯨類研究所発行の『日本鯨紀行』の写真を使い解説を加えたものである