古式捕鯨と塩釜(塩釜から見える鯨料理)

それは神社・日本100名城巡りから始まった

瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの第19回(岩国)

瀬戸内坂越の北前船交流記

第19回までは「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの全国版」を再構成したものです。

 

 第19回(岩国)
      
              2016年12月24日         
 今回は、坂越発祥のアース製薬の創業者にゆかりある方が出版した『嶋谷海運業史』から小樽等で活躍していた嶋谷汽船を紹介する。
 
 岩国には、日本100名城巡りで2016年7月にいったが、この時は、嶋谷汽船の末裔の嶋谷徹氏が、アース製薬の礎を築いたお孫さんと知る由もなかった。
 観光協会の方が佐々木小次郎の歌や踊りを披露してくれた。f:id:kitamae-bune:20180324181201j:image
 岩国観光の中心は、錦帯橋岩国城、そして佐々木小次郎だった。
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 それから5ヶ月、坂越まちなみみ館に嶋谷徹氏から『嶋谷海運業史』が届いた。
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 添えられていた手紙に、氏の亡きお母さんの父親にあたる方が、坂越の木村製薬(現、アース製薬)の創業者の木村秀蔵氏だったことが書かれていた。
 
 京大で金融論を選考、三井銀行に入行し海運業界の道に進まなった徹氏の先祖への想いが述べられていた。
 「われわれ子孫が今日こうあるのも、時代の波浪、激流の仲を奮闘努力した先祖のお陰であるとしみじみ実感でき、感謝の念と共に、こうした先人の努力や想いを少しでも理解し次の世代に伝えられれば……」と。
 
 戦前に国策で三井船舶と合併させられた時、社員によって編集された『嶋谷汽船略史』をベースに、残された断片的な資料をシグソーパズルをはめ込むようにつなぎ合わせ、御夫妻で各地の嶋谷汽船の足跡を訪ね出版されたものだった。
 
 1877年(明治10年)岩国由宇で氏の曽祖父、徳右衛門氏が廻船業を開始。
 由宇の廻船業者の多くが、鉄道の開通、電信電話の発達等の時代の変化に対応できず次第に廃業に追い込まれていた。
 こうした状況の中、嶋谷汽船(当時は嶋屋)は活躍している。
 
  江戸期の由宇は、廻船で栄え岩国藩の水軍が由宇に置かれ集積や積出港として、藩の出先機関まであった港町だった資料が、岩国由宇歴史民俗資料館に展示。

 

  明治の北前船は、江差から小樽に舞台が変わり、段々と帆船から蒸気船に変っていった時代。

この時代に嶋谷汽船は、廻船業を始め船旗に「上」を使用していた。
 村上水軍の旗の「上」の文字との関連について『嶋谷海運史』では、ミステリーでその関係は不明と掲載されています。

 二代目長男徳三郎氏の代に、1895年イギリス製の浦門丸(528t)を購入する等帆船からの脱却を早い時期から図っていた。
 1901年頃から、大和型帆船や木造汽船を処分し、堅実第一主義の経営に徹底し岩国由宇では嶋谷汽船だけになる。

 嶋谷汽船は、北前船航路の運航に蒸気船で進出し三国、伏木、小樽にも営業拠点をもうけ専用の定期便があったと述べられていた。

  

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 旧嶋谷社長宅は、今も小樽市文化財として残っている。
 2016年10月、小樽から坂越に来られた伊東直人氏の提供で、現在もある嶋谷汽船旧社長宅の写真の掲載出来きました。

 岩国の廻船業も、近代化の波で消滅してゆくが、その事業によって蓄えられた財力で、酒造業・金融業・織物業・造船業・海運業など、由宇の産業のうつりかわりの資料がこの歴史民俗資料館に展示されている。(矢竹考司)

瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの第18回(野辺地)

瀬戸内坂越の北前船交流記

第19回までは「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの全国版」を再構成したものです。

第18回(野辺地)


 2017年2月13日(2018年4月追記)

  青森駅から青い森鉄道に乗って野辺地に着いたのは2016年の9月始めだった。
 途中の青々と繁っていた木々に青森の地名の由来を感じた。
 
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 ここでは、野辺地歴史探る会の会長の鈴木幹人さんから多くの事が聞けた。
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 野辺地が六ケ所村と隣接している事、日本最古の鉄道防雪林、そして北前船の話を聞けた。 
 野辺地は、帆船時代北方交易の重要な拠点の1つとして、有力な豪商たちが競って入港していた話から『菜の花の沖』を思い出した。

 

  
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 知りたかった坂越の奥藤家の足跡はなかった。ネット上の「文化分解」のサイトに、奥藤家が年2回、瀬戸内海で塩を積み日本海を北上し野辺地に入った記述があったからだった。

 野辺地の廻船問屋五十嵐家の、野辺地久星客船帳にも入港記録さえありませんでした。

 あったのは、大西家の足跡がだった。
 その他竹原の塩の取引の台帳が沢山あった。
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 また、本州最北端の下北半島には、北前船とともに上方から入ってきた食文化や祭りがあると言われいるので、その代表のねぶた祭についても聞いた。
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 この中で、田名辺祭りは、京都八坂神社の祇園祭りの流れをくむとされる説があり、山車の形態、囃子にその痕跡があるといわれている。
  この祭りは、北前船の時代の前、近江商人下北半島でも活躍していた時代からあったようだ。

 近江商人の発祥の地の滋賀県高島市には、田名部祭りに類似した山車祭が存在がある事から、これが田名部に伝えられた説があると聴いた。
    

   鈴木氏が責任者になっている、「野辺地歴史を探る会」のFBには、銭屋五兵衛等、加賀藩の話が多くあった。

 この事から、下北半島ねぶた祭り日本海側に伝えられたかもしれない。

 
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ねぶた祭りの起源には、諸説あるのがありどれが正しいかというより、どれも正しいと考えるのがよさそうだ。


 また野村屋治三郎が、北前船で運んで店前に敷いていた敷石が、大坂城改築の際に切り出され残された土庄町小海の「残念石」の一部とわかり、野辺地町の町立愛宕公園の石段などに使われていたことがわかっら。  

 土庄町の残石公園の石と、兄弟石であるとの縁で友好記念公園協定を結ばれていた。
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     この調印式に野辺地まで行ったのが土庄町の南堀英二さんだった事が、このシリーズをfBへ投稿で知った。ま

 2017年5月初めて南堀さんに会い、淡路の北前船寄港地フォーラムに、野辺地の中谷市長も来られる話をすると、淡路で中谷市長に挨拶をしていた。
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 以来、南堀さんとは瀬戸内海での歴史の旅をするようになった。

 

         矢竹考司

 

瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの第17回(小樽)

瀬戸内坂越の北前船交流記

第19回までは「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの全国版」を再構成したものです。

第17回(小樽)

 

 坂越の北前船交流記第17回(小樽)
         2017年1月20日
  今回投稿して頂いた伊東直人氏は、小樽観光大学校の「おたる案内人マイスター」としてボランテイアとして活躍中で、国交省北海道運輸局から北海道旅客船協会専務理事を平成26年に退任された方です。
 
 伊東氏には、このシリーズの嶋谷海運発行にあたり小樽に残る、旧嶋谷汽船社長宅の写真の提供をして頂いています。
 また前回16号で、尾道の石工の事が書かれていたので問い合わせした処、以下の返事が頂けました。
 
 石段は遠藤又兵衛が寄進したもので、氏は山形出身の海産物商で明治後期に活躍した商人で現在もその邸宅の一部が保存されています。
 尾道市石工、寄井彌七と取次、小林利兵衛の石碑は、遠藤の寄進した石段の最上段にあります。(矢竹考司)
  

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            投稿者 伊東直人(小樽市在住)

 江戸幕府の下、領地で全く米が獲れない松前藩の財政を支えたのは、主に蝦夷地でアイヌが収獲した海産物などとの交易による収益でした。

 江戸中期になると鰊による〆粕は、西日本方面の棉や藍、菜種などの肥料として需要が高まり、近江商人に雇われた北陸地方などの船乗りにより西廻り航路で日本海、瀬戸内海沿岸の諸港に寄港し、大阪まで運ばれました。

  一方、松前藩蝦夷地では、生活に必要な米、塩、醤油、味噌などの食料品や衣類、藁製品などは、本州方面からの移入に頼っていて、漁猟中心の蝦夷地で瀬戸内の塩は、魚の処理、保存に欠かせない貴重なものでした。

 明治に入り、蝦夷地は北海道と改められ、明治政府による北海道の本格的な近代化が推し進められます。その拠点となる開拓使の本府が札幌に置かれ、札幌に近い小樽港は海上輸送の玄関口として位置付けられます。

 鉄道など陸路が未整備であった当時、北前船が北海道の開拓に必要な物資や開拓移民の生活必需品などの輸送を担い、北前船の存在なくして北海道の開拓はあり得ませんでした。

 小樽は、元治2年(1865)場所請負制度が廃止され「村並み」となり、本州の村と同等に扱われることになったこの年を開基としています。

 物資の集積地となった小樽には、その保管施設である倉庫が立ち並び、廻船問屋や金融機関なども進出し、まさしく北海道経済の中心地として飛躍期を迎えることになります。

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 明治20年代から30年代には、北陸地方北前船主である加賀市橋立の西出孫左衛門、西谷庄八の旧小樽倉庫(北海道における最初の営業倉庫)、増田又右衛門の旧増田倉庫、加賀市大聖寺瀬越の大家七平の旧大家倉庫、廣海二三郎の旧廣海倉庫、福井県南越前町の右近権左衛門の旧右近倉庫などの石造(木骨石造)倉庫が次々と建てられていきます。

日露戦争で日本の領土となった南樺太への中継基地として、また、鉄道の延伸や港湾の整備などにより輸移出入港の拠点となった小樽は絶頂期へと向かっていきますが、この頃から北前船は小樽の港から姿を消していきました。

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 海の守護神を祀る小樽住吉神社には、大家、廣海両家の寄進した鳥居(明治30年建立)や尾道の石工が築いた石段、揖保乃糸播州素麺會社の玉垣など、各地の北前船に関連した痕跡が数多く残されています。

 また、「北前船考」(昭和32年)などを著し、北前船の研究で先駆的な役割を果たした故越崎宗一氏は小樽生まれ(越崎家の郷里は加賀市大聖寺)であるなど、小樽と北前船とは深い縁があります。

  昨年11月、北前船の寄港地をめぐる旅で坂越や下津井、塩飽本島、鞆の浦、竹原などを訪れ、各地で北前船の遺産等について見聞する機会を得ました。坂越では「坂越のまち並みを創る会」の門田守弘会長から北前船の日本遺産認定に向けた取り組みの話を伺い、下津井の「むかし下津井回船問屋」矢吹勝利館長とは、双方の干拓、開拓に北前船の果たした役割に触れ、今後の交流を深めていくこととし、早速、小樽の北前船に関連する写真を館内展示していただきました。

 北前船が小樽発展の礎を築いたのは紛れもない事実ですが、小樽と北前船のさらなる関係解明や有形・無形の北前船文化の観光資源としての活用方法など、まだ多くの課題が残されています。

      

 

瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの第16回(鳥取)  

瀬戸内坂越の北前船交流記

第19回までは「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの全国版」を再構成したものです。

 

    

第16回(鳥取

                            2017年1月13日
   今回は、子供から高齢者まで「約500世帯」の氏子だけの奉仕で、大規模な祭りを執り行っている鳥取市の賀露神社ホーエンヤ祭です。

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 賀露神社にお伺いしたのは、2016年の3月でした。
 境内に続く階段を上がって行くと、高台にある境内からは鳥取港が見えました。これは坂越の大避神社にどこか似ていました。
 宮司の岡村 吉明氏から、賀露神社会館でホーエンヤ祭の写真を見せて頂きながら説明を受けました。
 
 この祭りは、鳥取県指定無形民俗文化財にもなり、みこし・行列を乗せて千代川を下る箱船とその周りを、にわかにふんした青年が乗ったホーエンヤ船が航行するもので、湾内を一周して豊漁を感謝するホーエンヤと呼ばれる神輿の海上行列が、祭り最大の魅力となっているとの話でした。
 
 この祭りは約1250年前、同神社の祭神になっている吉備真備公が遣唐使としての帰り、嵐に遭い、賀露沖の島に漂着し、住民が船で陸へ奉曳(ほうえい)したとの伝承が起源だとされた事から島の近くを通り、海岸まで奉曳される話でした。
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 それから2か月「ダイドードリンコ 日本の祭り」の放映があり、エジプト考古学者の、吉村作治早稲田大学名誉教授がプロデュースしたドキュメンタリー番組「地域創生の船行列~賀露神社ホーエンヤ祭り」が放送されました。
 
 放送から、陸を練り海を渡たるこの神事に、各世代間がつながり子供からお年寄りまであらゆる世代の人々が一つとなって構成され、賀露地区の500世帯が総出して成し遂げられいるのがわかりました。
 
 放送は、単に祭りの紹介ではなく地域の今や、人と人のつながりを映し出していました。
 祭りには、全国に発信できる力があり住んでいる人 のつなが りを感じました。
「祭りは日本の心のすぐそばに」いうスローガンのもと、吉村氏の冒頭の言葉には、祭りの当事者だけでなく見ている人にも力が湧いてきそうでした。
 
 この賀露神社の祭りの「1250年前に吉備真備が船で島に漂着が起源」「地区の500世帯」「陸と海の2つの見せ場がある祭り」、これも坂越の船祭りに似ていました。

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 祭りの話の後は、北前船の話になり竹野の人が書いた「但馬.廻船史話」を見せて頂きました。鳥取市は平成29年秋に北前船寄港地フォーラムが開かれ、その会場の一部になるのが賀露神社になり、岡村宮司が案内をするとの事でした。境内には大避神社にも残っている、錆びた錨そして、1800(寛政12)年に地元の廻船業者が寄進した石灯籠があり「尾道の石工の作で、原石は北前船で運ばれてきたらしい」と説明して頂けました。
 
 尾道市 の学芸員の西井さんが、尾道の石は全国の北前船寄港地に残っているので、平成30年のフォーラムまでにそれを調査すると言われていた話を思いだしていました。
 地元でわかなくても、寄港地側に残る石造物から発見できる例から、坂越も北前船の寄港地に行けば、石造物から何か発見があるかもしれないと感じました。
  また北前船を縮小した木造船の模型がある倉庫も見せて頂けました。
 
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 鳥取の次に行った島根県文化財の松江のホーランエンヤ祭は、もともとあった祭りに北前船の船頭が新潟から囃子等の文化を伝たえたらしく、似た祭りの文化は全国で17ヵ所ありいずれもが新潟より南の北前船寄港地にあり、鳥取市の賀露神社ホーエンヤ祭りも分布図にありました。瀬戸内海では広島と大阪にありましたが坂越の船祭りにその掲載はありませんでした。(矢竹考司)
    

  

瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの第15回(札幌)

瀬戸内坂越の北前船交流記

第19回までは「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの全国版」を再構成したものです。

 第15回(札幌)

        2016年12月23日

 

  坂越の北前船に関わるようになって、北前船は過去のものになったが、今も人と人をつなげる何か魅力がある事を感じるようになった。

 今回投稿して頂いた松尾さんが、札幌から坂越に来られたのは2016年10月ボランティアガイドとして、坂越の廻船を案内していた。

 この日、松尾さんからブログ「林住庵おち漫遊記」は、五木寛之著の「林住期」から触発された話に感銘した。

  そんな事があって11月江差で再会した時はとても驚いた。 

 再び「林住期」の話になりましたが、この時、北前船はこれから観光資源になって行くと実感した。 

 久ぶりに松尾さんのブログを見ると第240号で「北前船、赤穂から江差まで」が掲載されていたので投稿をお願いしました。(矢竹考司)                     

  北前船江差から坂越まで                      

10月に句会があって 訪れた赤穂市で四十七義士像が並ぶ大石神社に参詣してきました。 当地で有名なのは「討ち入り」なので外せません。

  神社のあるJR播州赤穂から一駅姫路寄りの市内・坂越(さこし)という港町の面影を残したまち並みの地区に寄りました。 

 地酒「忠臣蔵」の蔵元・奥藤家は 討ち入りのあった元禄時代から100年程も前から 廻船業も営んでいた大店であり 「奥藤酒造郷土館」には北前船の模型をはじめ往時の歴史資料が展示されています。

 

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 隣接する観光案内所「坂越まち並み会館」に入って思いがけず北海道との繋がりを感じる出会いがありました。 

 当日、館に詰めていた北前船文化の 調査をしているという矢竹さんと話をするうちに11月に北海道で「北前船寄港地フォーラム」があることが判明、がぜん興味が湧いてきました。フォーラムの開催要領をいただき 会合には坂越からも参加する旨聞き 帰宅後参加手続きを行いました。

 当地では観光面で仇打ちばかりでない観光資源として「北前船寄港地」をキーワードにまち興しに取り組んでいます。

  函館には5年住んだ関係から、北前船が江戸時代以降近世まで日本の物流を支えた大動脈だったことや江差追分等の郷土芸能・文化が北前船で運ばれたことを身近に知っていただけに北前船に寄せる思いは格別です。  

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11月11日のフォーラムは 会場の江差町文化会館に全国13寄港地がある県から600名を集め 盛会裏に開催。  江差追分始め郷土芸能披露のあと 新幹線開業後の道南函館観光を軸にパネル討論が行われました。

 会場入り口には坂越のPRブースも設置されていて1ヶ月ぶりに北海道で矢竹さんと再会するという不思議な縁がありました。 フォーラム終了後のレセプションでは寄港地フォーラム第1回開催地の酒田市の市議さんと同席となりフォーラムが始まった経緯を聴くことができました。 

 東京一極集中でなく特徴のある地域文化を発信していく狙いで北前船を横糸としてつなげた地域連携型フォーラムが出発点でかつての日本海側こそ表日本だと主張してきているとのこと。 北前船が日本遺産に登録されて現代に甦ることを期待してやみません。(松尾誠之)

                      

 

 

瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの第14回(播州赤穂)

瀬戸内坂越の北前船交流記

第19回までは「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの全国版」を再構成したものです。

第14回(播州赤穂吉良町)

                         2016年12月14日

 

 12月は忠臣蔵の新説が紹介される事が多く、今年も西本願寺から新たな資料がでていた。

 2008年12月には日経ビジネスが、故長谷川正康著(元東京医科歯科大学名誉教授)が書いた「歯の風俗誌」を紹介していた。


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これは、元禄の刃傷事件を赤穂塩と吉良塩の確執から描いたもので、大筋は以下のようなものだ。  

 5代将軍綱吉に歯磨き用として赤穂塩を献上して以来、江戸では「赤穂塩」といえば歯磨き用の塩を意味するようになる。 

「赤穂名産花形塩」として江戸で評判になり、赤穂塩の江戸への進出がめざましくなっていったと述べている。 

 それまで将軍家へ献上してきた吉良家の「饗庭塩」は、「赤穂塩」が綱吉に献上されて、江戸での面目を失い吉良家にとって浅野家は意識せざるをえない存在になっていく。

 これが吉良と浅野の不仲の遠因だったと話が展開されていた。  

 この将軍家への「饗庭塩」献上について、国会図書館にもその資料はなく、西尾市学芸員の方もそう言われていた。 

さらに郷土史家加古文雄さんも吉良町に塩は、江戸には行っていと言っています。

 

 墨田区の「たばこと塩の博物館」では、こんな面白いスト-リーが史実なら、塩の研究をしていた学者が論文で残していたはずだ話があった。

 その一方、「江戸の入れ歯師たち」や「噛む」には、1854年四壁庵茂蔦著「わすれのこり」と1855年山崎美成著「赤穂義士随筆」に、江戸での赤穂塩の人気ぶりが書かれていた。

 堀部安兵衛が、歯磨き粉で赤穂の焼き塩で、江戸で最も有名だった芝の「かねやすゆうげん」の店の看板を書いた絵を紹介していました。

  その安兵衛の書いた看板は、去年の12月に赤穂観光協会の鍋谷会長ら4人で泉岳寺に行った時、赤穂義士記念館で私が見た看板の1枚だった。

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 また、大高源吾も麹町の歯医者だった小野玄入の看板を書いて、赤穂塩が江戸で1番人気でお祭り騒ぎにまでなっていたと書かれていました。しかし、これは時代が違うのと考えている。

 

 その「かねやす」は今も残り、江戸期は塩を含んだ歯磨き粉を売っていたと言っていました。これで赤穂塩の江戸の活躍の史実と、吉良の塩の江戸での創作で、書いた架空の話のようだ。

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  長谷川氏の本から赤穂塩には、江戸でもドラマがあった事を知った。赤穂塩が江戸まで運ばれるようになったのか、いつ頃かはっきりしていない。

ただ、1619年から菱垣廻船が江戸まで、あらゆる物資を運んでおり、この廻船を使い大阪から江戸に行っていたと考えている。

 1800年代に入り、日本海の廻船が活発になり、三田尻も塩を北海道まで運ぶよりなった事から、瀬戸内の廻船は衰退していく。

 坂越の廻船は、江戸への塩廻船へ軸足を移して、赤穂塩がより有名なる。

 長谷川氏の著書は、時代を全部一緒にしていると感じた。

 赤穂で完成した入浜式塩田は、昭和28年鹿島建設によって流下式に変わるまで300年以上続き、吉良町もまた、昭和29年鹿島建設によって太平洋側で唯一流下式の工事が始まっていたのです、その流下式も国の政策により共に閉じた。

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終わりに、この14号を書くにあたり、西尾市郷土史家の加古文雄さんには随分お世話になった。

 吉良町の塩田跡等を丁寧に車で案内して頂いたのは去年の事でしたが、その時「饗庭塩」は岡崎の八丁味噌 に用いられ、「塩の道」を経由して長野県伊那地方や塩尻まで運ばれ、にがりが少なく良質だと珍重されたと説明して頂けた。   

 その加古さんと、この12月に再開が出来た時は懐かしい感じがしました。去年から続く交流で浅草では楽しい時間が持てた。  

 最後にはこのシリーズをお渡しした。

加古さんからは、暖かい声援を頂いて頂いた。

 ( 矢竹考司)

                             

瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの第13回(江差)

第19回までは「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの全国版」を再構成したものです。

 

坂第13号(江差2)
     2016年11月28日

 北前船寄港地フォ-ラムIN北海道江差に参加して



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 北前船に関わってまだ1年が過ぎたところであるが、偶然的な出会いが多く重なり、
まったくの素人の我々は北前船に深く関わるようになった。まるで北前船が導いてくれた・・・そんな不思議な思いである。そして今回もいろいろな出会いがあった。

 江差函館空港から車で約2時間かかった。日本海に出て、少し海沿いに走ると帆船が見えた。将軍徳川慶喜が大坂を脱出する際に乗った幕府軍の軍艦である開陽丸で、江差町のシンボル的存在でその開陽丸は江差の沖に沈んでいるf:id:kitamae-bune:20170105055636j:plain江差は、人口8104人の日本海に面した漁村で、そこにある江差町文化会館が会場となっていた。
 私たちが会場に着いた時はすでにフォ-ラムは始まっていて、会場内からは北の地を彷彿させる江差追分の歌声が響いていた。我々は会場には入らず赤穂市坂越のブ-スを開き、播磨屋さんの塩味饅頭と奥藤酒造のお酒をフォ-ラム参加者に振る舞った。

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大変な盛況で多くの関係者に坂越の名前を知っていただけたのではないか。またこの会場で近くのスポ-ツ都市として成功している北斗市に視察に来られていた赤穂市の市会議員さん6名が忙しい合間をぬって我々のために応援に来てくださった。
 
我々の隣には洲本市がブ-スを出し、クイ-ン淡路島と共に淡路の売りみをしていた。
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そのほか函館・秋田・酒田・加賀・敦賀尾道鳥取岡山市などが観光・物産のブ-スを開き、彼らと大いに交流を図ることができた。因みに行政以外で参加していたのは我々だけであったので市会議員さんの応援は心強かった。またこの観光・物産のブ-スにフォ-ラムの代表者や北海道の有力者の方々が訪ねてくださり名刺等を交わすことができたのも今回の大きな成果だった。
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 フォ-ラム2部ではJR北海道代表取締役社長の島田修さんの基調講演がありました。
3部ではパネルディスカッションA「北前船江差文化を語る。」で、江差と言えばなんといっても頭に浮かぶのは「江差追分」ではないだろうか。信州馬篭に端を発した「追分」が北前船に乗って江差まで来て江差追分」が歌われるようになりその歌は1000種以上あると聞きました。


 パネルディスカッションBでは「道南の文化遺産と観光資源の輝かせ方」と称して、観光で成功した例を挙げ意見交換がなされた。
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終わりに次期開催地の洲本市長竹内道弘氏が挨拶をしてフォ-ラムは閉会となった。来年5月には兵庫県が主催でフォーラムを開催する予定ですが、他の市町村の寄港地がまだ参加を表明していない為、洲本市中心に、淡路島3市だけで開催となりそうですが、まだ兵庫県の正式発表はされていません。
  フォ-ラム終了後、レセプション会場となった近くのニュ-えさしというホテルに会場を移し酒宴が行われた。江差町の町民によるご当地料理でお持て成しを受けた。さすが北海道で食材が豊富でどれもほんとうに美味しかった。我々も負けずに奥藤酒造の忠臣蔵大吟醸3本を振る舞ったが、15分もしないうちになくなってしまった。
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またこの会場で来賓の紹介をする際に洲本市の代表といっしょに壇上に上ることができたのは光栄であった。
 宴会も終わり同ホテルの部屋に戻ったが、飲み足りなかったので、一人町を散策しているうちにひっそりとただつむ雰囲気のよさそうな小料理屋を見つけ入ってみた。先客と女将さんの会話をしばらく聞きしていた。するとそのご夫婦は今日のフォ-ラムで「江差三下り」というちょっと艶ぽい舞の歌と尺八を担当していた人たちとわかった。私も今日のフォ-ラムの会場にいたと話したことから話が弾み、やがて「江差追分」の話になるとご夫婦が熱く語り始めた。女将さんは全国江差追分コンク-ルで日本一にもなったことがある強者でほんとうに驚いた。先客が帰った後、一曲だけうなりましょうかといってくださったので、ぜひにとお願いした。女将さんはお昼に声を出したので、もううまく出ないかもしれませんが・・・とことわり一曲だけということで聞かせていただいた。

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 一つの言葉を独特な抑揚をつけながら長く歌う「江差追分」は、その抑揚がまるで潮騒か波音に聞こえ情感を作り出す。そしてそこに歌い手の気持ちが込められるため目を閉じると聞き手のインスピレ-ションと相まってその情景の中へ誘い込まれる。歌っていただいた歌が分かれの歌だったため、悲しく淋しい思いにかられた。すばらしく、貴重な経験をさせていただきほんとうに感謝につきない。
 歌が終わったころ10名ぐらいの人が入ってきた。その中のリ-ダ-格の人が、また女将さんに「江差追分」をリクエストしていた、地元の有力者風で断り切れない雰囲気で気の毒に思えた。その人たちもまたフォ-ラム関係者で同席させていただくこととなった。聞けば北海道江差フォ-ラムの実行委員長と大阪21世紀フォ-ラムの会長、大学教授、JR、そして今日のフォ-ラムを企画した人たちだった。その場で坂越についてお話をさせていただいた。すると「以前からあなたたちが一生懸命に活動していることは聞いてた。お聞きすると坂越という港は北前船にとって欠くことのでない所じゃないで
すか」というお褒めのお言葉をいただいた。その後女将さんのすばらしい
江差追分」を聞き、12時過ぎにホテルに戻った。(寺井秀光)