瀬戸内坂越の北前船交流記
第19回までは「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの全国版」を再構成したものです。
明治の北前船は、江差から小樽に舞台が変わり、段々と帆船から蒸気船に変っていった時代。
岩国の廻船業も、近代化の波で消滅してゆくが、その事業によって蓄えられた財力で、酒造業・金融業・織物業・造船業・海運業など、由宇の産業のうつりかわりの資料がこの歴史民俗資料館に展示されている。(矢竹考司)
明治の北前船は、江差から小樽に舞台が変わり、段々と帆船から蒸気船に変っていった時代。
岩国の廻船業も、近代化の波で消滅してゆくが、その事業によって蓄えられた財力で、酒造業・金融業・織物業・造船業・海運業など、由宇の産業のうつりかわりの資料がこの歴史民俗資料館に展示されている。(矢竹考司)
また、本州最北端の下北半島には、北前船とともに上方から入ってきた食文化や祭りがあると言われいるので、その代表のねぶた祭についても聞いた。
この中で、田名辺祭りは、京都八坂神社の祇園祭りの流れをくむとされる説があり、山車の形態、囃子にその痕跡があるといわれている。
この祭りは、北前船の時代の前、近江商人が下北半島でも活躍していた時代からあったようだ。
近江商人の発祥の地の滋賀県高島市には、田名部祭りに類似した山車祭が存在がある事から、これが田名部に伝えられた説があると聴いた。
鈴木氏が責任者になっている、「野辺地歴史を探る会」のFBには、銭屋五兵衛等、加賀藩の話が多くあった。
この事から、下北半島のねぶた祭りが日本海側に伝えられたかもしれない。
ねぶた祭りの起源には、諸説あるのがありどれが正しいかというより、どれも正しいと考えるのがよさそうだ。
坂越の北前船交流記第17回(小樽)
江戸幕府の下、領地で全く米が獲れない松前藩の財政を支えたのは、主に蝦夷地でアイヌが収獲した海産物などとの交易による収益でした。
江戸中期になると鰊による〆粕は、西日本方面の棉や藍、菜種などの肥料として需要が高まり、近江商人に雇われた北陸地方などの船乗りにより西廻り航路で日本海、瀬戸内海沿岸の諸港に寄港し、大阪まで運ばれました。
一方、松前藩や蝦夷地では、生活に必要な米、塩、醤油、味噌などの食料品や衣類、藁製品などは、本州方面からの移入に頼っていて、漁猟中心の蝦夷地で瀬戸内の塩は、魚の処理、保存に欠かせない貴重なものでした。
明治に入り、蝦夷地は北海道と改められ、明治政府による北海道の本格的な近代化が推し進められます。その拠点となる開拓使の本府が札幌に置かれ、札幌に近い小樽港は海上輸送の玄関口として位置付けられます。
鉄道など陸路が未整備であった当時、北前船が北海道の開拓に必要な物資や開拓移民の生活必需品などの輸送を担い、北前船の存在なくして北海道の開拓はあり得ませんでした。
小樽は、元治2年(1865)場所請負制度が廃止され「村並み」となり、本州の村と同等に扱われることになったこの年を開基としています。
物資の集積地となった小樽には、その保管施設である倉庫が立ち並び、廻船問屋や金融機関なども進出し、まさしく北海道経済の中心地として飛躍期を迎えることになります。
明治20年代から30年代には、北陸地方の北前船主である加賀市橋立の西出孫左衛門、西谷庄八の旧小樽倉庫(北海道における最初の営業倉庫)、増田又右衛門の旧増田倉庫、加賀市大聖寺瀬越の大家七平の旧大家倉庫、廣海二三郎の旧廣海倉庫、福井県南越前町の右近権左衛門の旧右近倉庫などの石造(木骨石造)倉庫が次々と建てられていきます。
日露戦争で日本の領土となった南樺太への中継基地として、また、鉄道の延伸や港湾の整備などにより輸移出入港の拠点となった小樽は絶頂期へと向かっていきますが、この頃から北前船は小樽の港から姿を消していきました。
海の守護神を祀る小樽住吉神社には、大家、廣海両家の寄進した鳥居(明治30年建立)や尾道の石工が築いた石段、揖保乃糸の播州素麺會社の玉垣など、各地の北前船に関連した痕跡が数多く残されています。
また、「北前船考」(昭和32年)などを著し、北前船の研究で先駆的な役割を果たした故越崎宗一氏は小樽生まれ(越崎家の郷里は加賀市大聖寺)であるなど、小樽と北前船とは深い縁があります。
昨年11月、北前船の寄港地をめぐる旅で坂越や下津井、塩飽本島、鞆の浦、竹原などを訪れ、各地で北前船の遺産等について見聞する機会を得ました。坂越では「坂越のまち並みを創る会」の門田守弘会長から北前船の日本遺産認定に向けた取り組みの話を伺い、下津井の「むかし下津井回船問屋」矢吹勝利館長とは、双方の干拓、開拓に北前船の果たした役割に触れ、今後の交流を深めていくこととし、早速、小樽の北前船に関連する写真を館内展示していただきました。
北前船が小樽発展の礎を築いたのは紛れもない事実ですが、小樽と北前船のさらなる関係解明や有形・無形の北前船文化の観光資源としての活用方法など、まだ多くの課題が残されています。
第16回(鳥取)
2016年12月23日
坂越の北前船に関わるようになって、北前船は過去のものになったが、今も人と人をつなげる何か魅力がある事を感じるようになった。
今回投稿して頂いた松尾さんが、札幌から坂越に来られたのは2016年10月ボランティアガイドとして、坂越の廻船を案内していた。
この日、松尾さんからブログ「林住庵おち漫遊記」は、五木寛之著の「林住期」から触発された話に感銘した。
そんな事があって11月江差で再会した時はとても驚いた。
再び「林住期」の話になりましたが、この時、北前船はこれから観光資源になって行くと実感した。
久ぶりに松尾さんのブログを見ると第240号で「北前船、赤穂から江差まで」が掲載されていたので投稿をお願いしました。(矢竹考司)
10月に句会があって 訪れた赤穂市で四十七義士像が並ぶ大石神社に参詣してきました。 当地で有名なのは「討ち入り」なので外せません。
神社のあるJR播州赤穂から一駅姫路寄りの市内・坂越(さこし)という港町の面影を残したまち並みの地区に寄りました。
地酒「忠臣蔵」の蔵元・奥藤家は 討ち入りのあった元禄時代から100年程も前から 廻船業も営んでいた大店であり 「奥藤酒造郷土館」には北前船の模型をはじめ往時の歴史資料が展示されています。
隣接する観光案内所「坂越まち並み会館」に入って思いがけず北海道との繋がりを感じる出会いがありました。
当日、館に詰めていた北前船文化の 調査をしているという矢竹さんと話をするうちに11月に北海道で「北前船寄港地フォーラム」があることが判明、がぜん興味が湧いてきました。フォーラムの開催要領をいただき 会合には坂越からも参加する旨聞き 帰宅後参加手続きを行いました。
当地では観光面で仇打ちばかりでない観光資源として「北前船寄港地」をキーワードにまち興しに取り組んでいます。
函館には5年住んだ関係から、北前船が江戸時代以降近世まで日本の物流を支えた大動脈だったことや江差追分等の郷土芸能・文化が北前船で運ばれたことを身近に知っていただけに北前船に寄せる思いは格別です。
11月11日のフォーラムは 会場の江差町文化会館に全国13寄港地がある県から600名を集め 盛会裏に開催。 江差追分始め郷土芸能披露のあと 新幹線開業後の道南函館観光を軸にパネル討論が行われました。
会場入り口には坂越のPRブースも設置されていて1ヶ月ぶりに北海道で矢竹さんと再会するという不思議な縁がありました。 フォーラム終了後のレセプションでは寄港地フォーラム第1回開催地の酒田市の市議さんと同席となりフォーラムが始まった経緯を聴くことができました。
東京一極集中でなく特徴のある地域文化を発信していく狙いで北前船を横糸としてつなげた地域連携型フォーラムが出発点でかつての日本海側こそ表日本だと主張してきているとのこと。 北前船が日本遺産に登録されて現代に甦ることを期待してやみません。(松尾誠之)
2016年12月14日
12月は忠臣蔵の新説が紹介される事が多く、今年も西本願寺から新たな資料がでていた。
2008年12月には日経ビジネスが、故長谷川正康著(元東京医科歯科大学名誉教授)が書いた「歯の風俗誌」を紹介していた。
これは、元禄の刃傷事件を赤穂塩と吉良塩の確執から描いたもので、大筋は以下のようなものだ。
5代将軍綱吉に歯磨き用として赤穂塩を献上して以来、江戸では「赤穂塩」といえば歯磨き用の塩を意味するようになる。
「赤穂名産花形塩」として江戸で評判になり、赤穂塩の江戸への進出がめざましくなっていったと述べている。
それまで将軍家へ献上してきた吉良家の「饗庭塩」は、「赤穂塩」が綱吉に献上されて、江戸での面目を失い吉良家にとって浅野家は意識せざるをえない存在になっていく。
これが吉良と浅野の不仲の遠因だったと話が展開されていた。
この将軍家への「饗庭塩」献上について、国会図書館にもその資料はなく、西尾市の学芸員の方もそう言われていた。
さらに郷土史家加古文雄さんも吉良町に塩は、江戸には行っていと言っています。
墨田区の「たばこと塩の博物館」では、こんな面白いスト-リーが史実なら、塩の研究をしていた学者が論文で残していたはずだ話があった。
その一方、「江戸の入れ歯師たち」や「噛む」には、1854年四壁庵茂蔦著「わすれのこり」と1855年山崎美成著「赤穂義士随筆」に、江戸での赤穂塩の人気ぶりが書かれていた。
堀部安兵衛が、歯磨き粉で赤穂の焼き塩で、江戸で最も有名だった芝の「かねやすゆうげん」の店の看板を書いた絵を紹介していました。
その安兵衛の書いた看板は、去年の12月に赤穂観光協会の鍋谷会長ら4人で泉岳寺に行った時、赤穂義士記念館で私が見た看板の1枚だった。
また、大高源吾も麹町の歯医者だった小野玄入の看板を書いて、赤穂塩が江戸で1番人気でお祭り騒ぎにまでなっていたと書かれていました。しかし、これは時代が違うのと考えている。
その「かねやす」は今も残り、江戸期は塩を含んだ歯磨き粉を売っていたと言っていました。これで赤穂塩の江戸の活躍の史実と、吉良の塩の江戸での創作で、書いた架空の話のようだ。
長谷川氏の本から赤穂塩には、江戸でもドラマがあった事を知った。赤穂塩が江戸まで運ばれるようになったのか、いつ頃かはっきりしていない。
ただ、1619年から菱垣廻船が江戸まで、あらゆる物資を運んでおり、この廻船を使い大阪から江戸に行っていたと考えている。
1800年代に入り、日本海の廻船が活発になり、三田尻も塩を北海道まで運ぶよりなった事から、瀬戸内の廻船は衰退していく。
坂越の廻船は、江戸への塩廻船へ軸足を移して、赤穂塩がより有名なる。
長谷川氏の著書は、時代を全部一緒にしていると感じた。
赤穂で完成した入浜式塩田は、昭和28年鹿島建設によって流下式に変わるまで300年以上続き、吉良町もまた、昭和29年鹿島建設によって太平洋側で唯一流下式の工事が始まっていたのです、その流下式も国の政策により共に閉じた。
終わりに、この14号を書くにあたり、西尾市の郷土史家の加古文雄さんには随分お世話になった。
吉良町の塩田跡等を丁寧に車で案内して頂いたのは去年の事でしたが、その時「饗庭塩」は岡崎の八丁味噌 に用いられ、「塩の道」を経由して長野県伊那地方や塩尻まで運ばれ、にがりが少なく良質だと珍重されたと説明して頂けた。
その加古さんと、この12月に再開が出来た時は懐かしい感じがしました。去年から続く交流で浅草では楽しい時間が持てた。
最後にはこのシリーズをお渡しした。
加古さんからは、暖かい声援を頂いて頂いた。
( 矢竹考司)