古式捕鯨と塩釜(塩釜から見える鯨料理)

それは神社・日本100名城巡りから始まった

瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの第7回(酒田)

第19回までは「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの全国版」を再構成したものです。

第7回(酒田)

 

             2016年9月6日

 酒田では、北前船にとても熱心なガイドの豊岡紘子さんに、自転車で効率的に案内をしていたいた。  

 案内された日和山公園には、北前船航路を確立した河村瑞賢の銅像があった。
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  立派な常夜灯の南側に、坂越田淵文治朗、北側の文字は消えていましたが『酒田の歴史』中学生向けの副読本から播州坂越田淵庄三朗と高田屋手中の文字が並んでいることが記されていた。
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 田淵家は赤穂で1673年より塩田、塩問屋、廻船業を営み、文化文政時代(1804→1830)には日本最大の塩田の持ち主でした。しかし、この田淵家ではないと赤穂での見解だったが。

 次に案内された 酒田市資料館では、偶然会った、庄内酒田古文書館の杉原館長から、つい最近新たな大量の古文書が発見されたので、坂越の廻船や赤穂塩の事で新たな事実がわかるかも知れないと教えていただいた、酒田の客船帳が2018年4月に公開される聞いたので、見に行こうと思っている。
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 この後は一人で、酒田美術館に北前船寄港地フォーラムの議長の石川館長を訪ねました。学芸主幹の熱海氏から話をお聞きした後、北前船日本遺産応援饅頭と共に冊子をお渡ししました。

 

 その後、荘内日報の富樫編集長を訪ね、ご自身が新聞協会に投稿したものを再投稿していただけることになった。これは、事前にネットでも見れること伝えていたからである。

  最後に訪ねた大信寺の住職は、過去にも住職がかわり、ご自身も長野から来たと言っておられました。 

墓地は広大でしたが、『酒田市史』にあった他国船墓地と確認出来るものはなく、元禄時代の他国船員の墓は大西家のものだけが残っていた。 

それはその墓がとても立派なものだったからだと感じました。当時の坂越の人の活躍と苦難を坂越の人達にも伝えねばと思った。
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『酒田の歴史副読本』に、大信寺の過去帳には遭難等で客死した北前船の船員は坂越浦の人が一番多いと書かれていた。 

 
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 酒田駅についた時、ガイドの豊岡さんが出迎えてくれていました。まず見せていただけたのが、日和山公園にある常夜灯北側のある播州坂越.と消えていた文字で、それをわざわざ書いてきてくれていた。 
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また、『酒田の歴史』(中学生向けの副読本)があることを教えて頂けたのも豊岡さんだった。豊岡さんは酒田に来られるまでは江差の高校の教員で、江差追分の舞踊もされていたといい、北前船に思いを寄せる背景がわかりました。その後も沢山の資料に送っていただき、丁寧な手紙が添えられていた。

酒田では、北前船に熱い思いのあるガイドに出会え多くの事がわかった。

 酒田では中学生の歴史副読本まで発行し、かっての酒田の人々の暮らしを今に伝えています。

 坂越の子供達は、かって坂越の人々が酒田で活躍していた事さえ知らなし。その足跡が、酒田にも残され、それが坂越の船祭りに繋がった歴史を伝える時がいつかくると思った。

瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの第6回(坂越のまちなみ)

第19回までは「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの全国版」を再構成したものです。

第6回(坂越のまち並み)

第6回(坂越の町並み)

                                                                                             2016年8月23日

 坂越のまち並みについて、赤穂高校出身の西川貴士さんが鳥取大学で地域政策を専攻し、7年前に卒論で書いていた。  

 赤穂の塩と坂越の町並みや港を地形や歴史からわかりやく書かれていたのでここで掲載をお願いした。 

 坂越のまち並みには、白壁、海岸通りには石垣が残り、昔の風情が多く残っています。 f:id:kitamae-bune:20170104182922p:plain

 

大道には、木戸門跡、坂越まち並み館、坂越浦会所、そして大道の奥には大避神社があり、それは都市景観100にも選ばれています。今回は卒論から坂越の町並み紹介する。(矢竹 考司)

 

「歴史的町並みの比較研究 ―瀬戸内の港町・坂越を中心として― 」(要約)                      

  廻船業が日本経済の流通において中心的な役割を担った近世においては、港町坂越は他国他領との経済流通・文化交流の結節点として、政治中心の城下町加里屋と並び重要な役割を果たしていた。  

  近世の赤穂では、千種川河口のデルタを利用して大規模な塩田開発が行われていた。 大量生産された赤穂塩は、瀬戸内海の廻船ネットワークと千種川高瀬舟ネットワークを利用して全国に輸送ルートを拡げ、赤穂に富をもたらしていた。  

 この製塩業という産業が坂越を廻船積出港として発展させる契機となっていた。 赤穂塩や千種川流域の諸物資は、千種川の河川港から坂越大道を通じて坂越港へ運ばれ、全国各地へ積み出されていました。

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また、坂越大道には商家が多数軒を並べており、人の往来も多かく 、坂越のまちはこの大道を中心に繁栄していたことがわかる。 

 この坂越では海から来る文化と、川から来る文化とが融合していた。 瀬戸内の港町においては、海路を通じた経済活動の中で財力の蓄積があり、その余裕の中で人々が学問に励み文化的意識の高さを育んだものと見ることができると氏は述べています。坂越の歴史的町並みは、T字型に形成されている。

 

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 一方、鞆や室津など瀬戸内の多くの港町は、近世には海岸線沿いにまちが発展し、現在は歴史的な町並みとなっている。 鞆の歴史的な町並みや室津の「本陣街」に面した旧商家は、裏口が港に接する家屋構造となっているが、坂越の場合は、玄関口を港に向け、高さ約1mの石垣の上に建てられているのが特徴である。
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このような家屋構造をもつ旧商家は、坂越ではかつての海岸線沿いに多く見られる。  

 坂越のこの特徴的な町並みがT字型となったのは、坂越の経済流通・文化交流の中心が海岸線沿いでなく、港の西北に向かう坂越大道にあったからである。坂越大道には、ほぼ全体にわたって古い町並みが形成されているが、とりわけ港の近くに間口の広い堂々とした豪商建築が集中している。 “人の流れ”と“物の流れ”を生み出した坂越大道は、港町としての発展を支える坂越のメインストリートであったといえる。 

 

 この坂越大道が発展したのは、坂越が瀬戸内海水運だけでなく、大道の先にある高谷の河川港を介して千種川水運とのネットワークとも結びついていたからである。 本来、河川の流域をもつ港に大型廻船が入港することは困難であった。  

 加里屋は赤穂藩53,000石の城下町でありながら、千種川の河口港としての役割も果たしていた。 しかし、上流から運ばれてくる土砂によって河口にデルタが形成され、遠浅の海岸となったために、西廻り航路を航行する大型廻船の加里屋入港はほとんど実現しなかった。 その反面、鞆や室津には河川がないため、西廻り航路を航行する大型廻船の入港に適していたと考えられる。 

 


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ところが、坂越は河川の流域をもつ港でありながら、大型廻船の入港が可能な港であった。そこでは、単に人が立ち寄っただけでなく、坂越大道を通じて赤穂塩や千種川流域の物資が積み出されたという歴史があった。 それゆえ、坂越のこの特徴的な町並みがT字型に 形成されたのである。 これは坂越の港町としての個性であるといえよう。  西川貴士(大阪府在住-赤穂市尾崎出身

                     

瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの第5 回(東京)

第19回までは「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの全国版」を再構成したものです。

 

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2016年7月14日 

 今回は、「食」について東京からです。

 加賀出身で石川県の観光大使道場六三郎氏の日本料理の店、東京銀座の「懷食みちば」で、「北前船寄港地 坂越」の法被で坂越から3人で食事会をしたの2016年2月。

これは、「第30回記念手づくり郷土賞」公開審査に参加した時でした。 

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 銀座では珍しい北前船の法被に女将が挨拶にこられ、

六三郎氏と加賀と北前船の話で盛り上がった。

 マネージャー佐々木氏からは、坂越のこの北前船シリーズにコメントを頂きいた。

 

 去年「第17回北前船寄港地フォーラムIN加賀」で、フォーラムの発案者で作家の石川好氏と加賀出身の道場氏が北前船と食について対談があった。 

 道場氏は日本料理の基本の昆布の「うまみ」でこの昆布なくして「出汁」は生まれなかったと断言され、その昆布を北海道から運んだ北前船の話になった。f:id:kitamae-bune:20170104125927p:plain

  料理は器によって更に際立たせ、器もまた料理が盛られることで真価を発揮する、料理と器の一体感が日本料理の真髄であり、石川ならではの数々の伝統工芸があった事が料理に影響 したと対談の中で語っている。

 北前船で運ばれて来た豊かな食材と、加賀百万石が育んだ文化が一体になり、加賀の郷土料理として今日まで脈々と受け継がれていたのを知ったフォーラムだった。

  その後のレセプションで、道場六三郎氏監修の料理が出され、馴染みのないニシンがとても美味しかったのが印象的だった。 

 

 道場氏と名刺交換し、銀座に氏のお店があるのを知り行ってみたいと思いがフォーラムに参加した同じメンバーで実現した。

  この11月にニシンで栄えた江差町で実施されるフォーラムでは、どんな出会があるか楽しみだ。(  矢竹考司)

 

 以下は懐食みちばのマネージャー佐々木郁緒氏のコメントです。

 (佐々木さんは、新潟市観光文化検定2級をもっておられ観光に関心が高い方です) 

 私が北前船を知ったのは、新潟市の歴史の勉強をしていた時で、それは新潟市観光文化検定を受験の為でしたがこれがその後につながっていきました。

  当時物流の方法が少なかった時代に北前船は大いに活躍されたと思います。

  食で上げますと全国各地から北前船によって 運ばれたもので出来た日本料理では欠かせない命のダシです。 

 北海道では昆布、高知のカツオが大坂で融合し、完成されたダシは壮大な北前船のロマンを感じさせてくれます。 

 命のダシさえあれば和食の何の料理でも作る事が出来ます。 

 今回、縁があって坂越のまち並みを創る会の方々に大変お世話になり加賀と東京がテーマという事でコメントさせて頂きました。

  銀座の懐食みちば、東京にお越しの際には是非いらしてみて下さい。

                                  

 

瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの第4回(加賀 )

 

 

 第4回

 

                   2016年 6月9日        

     .第17回北前船寄港地フォーラムIN加賀市に参加して

.  フォーラムの会場となった加賀市文化会館に入るとスーツに身を包んだ人たちが、やや重い雰囲気の中に座っていた。 

 それもそのはずで、いただいた資料の参加名簿を拝見すると、国土交通省事務次官観光庁次長、国土交通省大臣官房審議官、衆・参議員、JR西・東代表取締役、各寄港地の市長、副知事、県議、観光部長など、そうそうたるメンバーでそれに付随する制服組が会場を埋めていた。また観光庁長官がビデオメッセージを寄せるなど行政に携わる人たちでつくるフォーラムといった印象であった。 

  最初から日本遺産を目的においているといった感じだ。 会長の作家石川好さんの挨拶で、日本海側をもっと明るい地域にしたいというお言葉があったが、まだ発掘の余録を残す日本海側の地域に観光に携わる人たちが熱い目を向けている。

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これから押し寄せてくるであろう外国人観光客を、少しでも日本海側へ呼び寄せたいという切なる思いがした。 フォーラムには32の地域の人たちが参加されていた これらの地域を結ぶ地域ネットワークを形成し観光立国を造るという今までにない壮大さをもった試みでもある。 

 

  その一席に北前船の寄港地である坂越、そこにある坂越のまち並みを創る会が参加できたことは大いに意義がある。北前船の往来が盛んであった頃の古い地図に寄港地として坂越が載っている。

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 日本遺産に登録されれば、坂越の名前を広く、日本そして世界に発信することができるようになり、同じように登録された各地域と連携を密に取り合うことができるようになる。 

少子高齢化により、どうすれば坂越が良くなるかということを考えると観光も重要なファクターの一つであることは間違いない。   これからの観光は・おもてなし心・心に残る出来事・スローライフといったキーワードが主軸を占めるようになる。 

  北前船が盛んに行き来した明治初頭のような賑わいが日本海の各所に見られるようになれば、自然と我が坂越も賑わいを取り戻すようになる。 そういう思いで赤穂への帰路についた。

                 (坂越在住寺井秀光)

瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの第3回(赤穂藩発の和算)

第19回までは「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの全国版」を再構成したものです。

          2016年5月13日

 今回は、和算文化を加速させた播州赤穂藩家臣が北前船の航海術に繋る話!

  算額は、円周率等の問題の絵馬を神社に奉納、この解答の絵馬(写真)を奉納するもので日本独特の文化で重要文化財算額絵馬もある。

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 2016年3月坂越で梶川雄二さんが、「北前船和算などをめぐって」の論文のレクチャーには〜

 円周率を小数点以下7桁までの正しい値を、日本で最初に発表した浅野家家臣の村松茂清の話があった。

 茂清の養子の秀直とその子高直が討ち入りに参加した時は、茂清が亡くなって7年が過ぎ、茂清は1663年に「算俎」を出版。

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  この後、和算第一人者の関 孝和が算出した円周率より正確で、ニュートン算出より13年早く、鎖国下の日本独自の和算が発達。

  和算は、日本海側の各地にも北前船を通じて伝播し、富山では石黒信吉が航海術の本まで発行される。

 この他、日本地図、暦、にまで影響が波及している。

 前述の和算第一人者の関孝和は、『天地明察』の小説に登場し映画化され、ロケの舞台が、渋谷駅近くにある金剛八宮には算額絵馬があり、宮司は映画化で絵馬を見にくる人が増えたと話していた。
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 ストーリーは、算額絵馬を解明する場面から始まり出題者は 関孝和。

やがて孝和が協力し天皇家に代わり新しい暦をつくるストーリー。 

 


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 赤穂では、有年地区が和算はさかんで大津八幡神社算額絵馬は、

暦を扱い赤穂市指定の文化財。 

  梶川さんは、「梶川与惣兵の10代目子孫で私は敵側だ」の言葉に、梶川殿が止めていなかったら忠臣蔵のストーリーはなかった。

 

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 2016年末、梶川役で義士祭にでている。 

 「北前船和算などをめぐって」

  北前船が山陰・北陸・東北日本海側を経由して当時「ここの5月は江戸にもない」との表現でも有名な北海道南西部の町江差にまで行っていたことはよく知られている。

 当時北海道では米が育たず米を堂島から持ち込み、帰りは江差のにしん、

昆布を運んでいたようである。 

現在も大阪では、アイヌの娘の絵で有名な「えびすめ」などの昆布のお店が多々存在し、京都のにしんそばも有名である。

私は逆にそばが持ち込まれた江差で、にしんそばを横山家で賞味したことが何回かあるのである。

 文政13年版千葉雄七胤秀の算法新書も有名である。
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 有名な江差の民謡「江差追分け」はこのような北前船による人的交流から生まれたようで、座頭の人がもたらしたと言われている。 また、和算もこの交流をもとにしてもたらされたようで、江差の横山家には「算法新書」が蔵に眠っており、もう一軒の古い家、にしん御殿で知られる関川家には「継子立て(ままこだて)」に関する興味ある書物がいくつか残存している。

 

 また、幕末の「函館戦争」(1868-1869年)の折りに軍艦船開揚丸が江差沖で座礁しており、海中から関流の和算の本が多くあがってきている。
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 断片しかなかったものを襖に張り付けて乾かす根気のいる作業で復元したものである。 まさに江差は当時(江戸末期、明治初頭)としては現在の札幌をしのいでいた。

2.  北陸・東北・北部日本海側地方のこと  

 新潟県長岡および山形県鶴岡も多くの北前船の立 ち寄った所で、ここにも多数の和算算額が今なお新し く発見されている。   
  鶴岡市の社寺は奈良、京都と共通な名を持った所が多 数存在し、私が立ち寄った所も春日神社という名を持 っている。 

 北陸の能登半島にも多くの北前船が寄港し、2つの総 持寺も能登の門前と関東の神奈川に共通な名前を持って いる。

 以下略
 この続きや写真は「和算北前船などをめぐって」で検索してご覧ください

尚、参考文献 。

 [1] 北前船おっかけ旅日記無明舎鐙啓記著

 [2] 北前船加藤貞二著 無明舎

 [3] 続神壁算法 

瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの第2回(下津井)

 倉敷市の「むかし下津井回船問屋」に初めて行ったのは2015年9月。

 

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 北前船寄港地の地図には坂越の名前もあった。

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 展示されていたものには大変珍しいものがたくさんあり、訪れた人はもう一度行きたくなる廻船問屋跡で、以来坂越まち並みを創る会との交流するようになった。

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赤穂民報の掲載から

坂越の北前船のイベントが2017年6月にあり30人の方々に下津井節を披露していた。


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 写真は矢吹館長と坂越の盆踊りの唄を披露した坂越民謡保存会の篠原明さん。


倉敷のジーンズで作られた「北前船寄港地 坂越」の法被は矢吹館長の紹介で出来たもので、その高級感と文字の響きから北前船の話で盛り上がる事がよくある。

 以下の投稿から1年後、札幌発『すすめ北前船』に演され、ブログ『すすめ北前船下津井』で紹介している。

 

       2018年追記(矢竹 考司)

 

         むかし下津井回船問屋から 

 

                                  2016年4月13日

 

 ある時代、殷賑を極めた港町がありました。瀬戸内海のほぼ真ん中に位置し、誠に風光明媚な土地にあります。この湊を下津井と言います。

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 江戸時代から明治時代にかけて、綿花の栽培に欠くことの出来ないものが、ニシン粕と言う肥料でした。ニシン粕はニシンの〆粕とも呼ばれたように、ニシンを絞って油を取った残り粕でした。

  当時は、蝦夷と呼ばれた北海道の江差周辺で、無尽蔵とも言われるほど捕獲されたニシンは、身欠きニシンなどに加工されたもの以外は、ほとんど魚油の採取に使われました。絞りかすは天日干しされ、カマスや俵詰めにされ船で全国各地に運ばれました。

  このニシン粕を運んだ船が、北前船と呼ばれた千石船でした。千石船は、その当時にあっては最大級の大型帆船でした。この帆船が船団を組んで下津井沖に姿を見せる頃になると、下津井の商家や花街は一気に賑わいを増しました。

 

多い時には、一シーズンに八十三艘もの北前船が下津井に着岸したと言いますから、その賑わいは想像を絶するものがあったと思われます。下津井の沿岸には二十数軒もの北前船相手の問屋が軒を連ねていたと言われています。

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 北前船が運んでくる肥料のお陰で下津井周辺の干拓地や畑では、大々的に綿花の栽培が行われました。

 そして、その頃の綿作と綿の加工技術が始まりで、繊維の町児島が誕生するきっかけになります、特に帆布と呼ばれている厚手の生地は、千石船の帆に使われただけでなく、足袋に加工され、戦時中には軍服に、戦後は学生服として爆発的に売れました。

 今は国産ジーンズ発祥の地として児島ブランドは、多くの方々に愛され世界各地に輸出されています。

  また、北前船は商品だけでなく、情報や文化、芸能も運んできました。

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その一つがお座敷歌として広く親しまれてきた下津井節です。下津井節は今も岡山を代表する民謡として歌い継がれています。

         矢吹勝利(むかし下津井廻船問屋館長)

 

瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの第1回(坂越浦の北前船)

第1回(坂越の北前船)

 

2014年頃から、故郷が秦河勝のゆかりある神社や、聖徳太子のゆかりかる神社をたずねていた。
 
2015年6月宇治橋の近くにあった宇治市の放生院(橋 )にいった。
この日、住職から宇治茶が日本遺産に認定されたことを聞いた。
 故郷坂越には何があるだろう?と思った。坂越は廻船の町だった事は知っていたから
もしかして北前船と関係があるかもしれないと調べた。f:id:kitamae-bune:20190511072954j:image

2007年から「北前船寄港地フオーラム」作家の石川好氏の発案で日本海側で開催していたのを知った。

 

 そんな2015年、坂越浦会所で北海道余市の福原漁場で昔の坂越港の風景の絵の写真を見て、以前読んた「高田屋嘉兵衛」の世界が広がった。

  

 

 

  

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写真家の提供

 当時、朝ドラのマッサンで余市のニシンの話があった事もあり、この絵をききかけに、坂越でボランティアでガイドをしながら、北前船の足跡を調べるようになった。
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 地元では北前船日本海の事で高田屋嘉兵衛は小説の世界との意見が大勢だった。

 そんな空気の中、坂越のまち並みを創る会の方に、相談して私の北前船の調査がはじまった。

 9月、下津井廻船問屋の矢吹勝利館長、尾道の西井亭学芸員を訪ねた。
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 西井亭学芸員は、「 尾道の方が書いた『尾道の絆』も参考すると、貴方も寄港地を訪ね出版して市に提出しては」の一言がききかけでこのシリーズがはじまった。
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 こうして、「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの」と題して、多くの方々に投稿をお願いしたのが始まりだった。

 日本海側の北前船寄港地の坂越の足跡は、東京都立図書館で市や県史等から調べると酒田、野辺地に坂越の名があった。

 

 坂越でも投稿をお願いしながら北前船の足跡も調べてると、板の古文書が安永家(大西家)に赤穂市指定文化財の船賃銀定法(1739年)があつた。

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松前日本海等、薩摩等全国の地名があった。

また、県指定文化財の黒崎墓所と酒田大信寺との繋りもわかった。

 昭和58 年発行の赤穂市史 第2巻には、坂越の廻船は、問屋も兼ねた買積船だと述べられ大西家は、大避神社に立派な常夜燈(1768年)がある。

 その一方、海難事故は多く渋谷家が 1694年酒田沖での海難事故、遭難が多発して いた事も赤穂市史にあり、大避神社には海上安全を祈願した享保時代の常夜燈、弁財船(古いもので1722年)の絵馬が数多く残っている。  

 

 これと並行し坂越のまち並みを創る会から、加賀橋立を皮切りに北前船寄港地フォーラムに毎回参加した。

 

この時対談した道場六三郎さんの銀座の会食みちばの坂越の3人で行き、このマネージャーに投稿していただいた。

 

  新たな企画として「北前船寄港地 坂越」の法被は、下津井廻問屋の矢吹館長の紹介でできた。
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 坂越の船祭りと廻船の活躍を、日常的に発信する為、地元業者の方々にお願いした。

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 塩味饅頭の包装紙(江戸期の坂越の船祭りの絵柄)は、明和期創業の元祖播磨屋になた。

 この塩味饅頭は、北前船寄港地フォーラムの2017年新春の会(東京椿山荘)で寄港地の首長など参加された80人の方々に配られた。


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 この椿山荘で、坂越の北前船の活動が紹介されたのを機に、1年かかったこのシリーズを2017年2月からフェイスブックへの投稿で多くの方々と出会えた。

 

 第19回までは、「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの」を加筆訂正した。

 

          東京在住 矢竹考司