瀬戸内坂越の廻船と赤穂塩

それは神社・日本100名城巡りから始まった

瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの第3回(赤穂藩発の和算)

第19回までは「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの全国版」を再構成したものです。

          2016年5月13日

 今回は、和算文化を加速させた播州赤穂藩家臣が北前船の航海術に繋る話!

  算額は、円周率等の問題の絵馬を神社に奉納、この解答の絵馬(写真)を奉納するもので日本独特の文化で重要文化財算額絵馬もある。

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 2016年3月坂越で梶川雄二さんが、「北前船和算などをめぐって」の論文のレクチャーには〜

 円周率を小数点以下7桁までの正しい値を、日本で最初に発表した浅野家家臣の村松茂清の話があった。

 茂清の養子の秀直とその子高直が討ち入りに参加した時は、茂清が亡くなって7年が過ぎ、茂清は1663年に「算俎」を出版。

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  この後、和算第一人者の関 孝和が算出した円周率より正確で、ニュートン算出より13年早く、鎖国下の日本独自の和算が発達。

  和算は、日本海側の各地にも北前船を通じて伝播し、富山では石黒信吉が航海術の本まで発行される。

 この他、日本地図、暦、にまで影響が波及している。

 前述の和算第一人者の関孝和は、『天地明察』の小説に登場し映画化され、ロケの舞台が、渋谷駅近くにある金剛八宮には算額絵馬があり、宮司は映画化で絵馬を見にくる人が増えたと話していた。
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 ストーリーは、算額絵馬を解明する場面から始まり出題者は 関孝和。

やがて孝和が協力し天皇家に代わり新しい暦をつくるストーリー。 

 


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 赤穂では、有年地区が和算はさかんで大津八幡神社算額絵馬は、

暦を扱い赤穂市指定の文化財。 

  梶川さんは、「梶川与惣兵の10代目子孫で私は敵側だ」の言葉に、梶川殿が止めていなかったら忠臣蔵のストーリーはなかった。

 

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 2016年末、梶川役で義士祭にでている。 

 「北前船和算などをめぐって」

  北前船が山陰・北陸・東北日本海側を経由して当時「ここの5月は江戸にもない」との表現でも有名な北海道南西部の町江差にまで行っていたことはよく知られている。

 当時北海道では米が育たず米を堂島から持ち込み、帰りは江差のにしん、

昆布を運んでいたようである。 

現在も大阪では、アイヌの娘の絵で有名な「えびすめ」などの昆布のお店が多々存在し、京都のにしんそばも有名である。

私は逆にそばが持ち込まれた江差で、にしんそばを横山家で賞味したことが何回かあるのである。

 文政13年版千葉雄七胤秀の算法新書も有名である。
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 有名な江差の民謡「江差追分け」はこのような北前船による人的交流から生まれたようで、座頭の人がもたらしたと言われている。 また、和算もこの交流をもとにしてもたらされたようで、江差の横山家には「算法新書」が蔵に眠っており、もう一軒の古い家、にしん御殿で知られる関川家には「継子立て(ままこだて)」に関する興味ある書物がいくつか残存している。

 

 また、幕末の「函館戦争」(1868-1869年)の折りに軍艦船開揚丸が江差沖で座礁しており、海中から関流の和算の本が多くあがってきている。
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 断片しかなかったものを襖に張り付けて乾かす根気のいる作業で復元したものである。 まさに江差は当時(江戸末期、明治初頭)としては現在の札幌をしのいでいた。

2.  北陸・東北・北部日本海側地方のこと  

 新潟県長岡および山形県鶴岡も多くの北前船の立 ち寄った所で、ここにも多数の和算算額が今なお新し く発見されている。   
  鶴岡市の社寺は奈良、京都と共通な名を持った所が多 数存在し、私が立ち寄った所も春日神社という名を持 っている。 

 北陸の能登半島にも多くの北前船が寄港し、2つの総 持寺も能登の門前と関東の神奈川に共通な名前を持って いる。

 以下略
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尚、参考文献 。

 [1] 北前船おっかけ旅日記無明舎鐙啓記著

 [2] 北前船加藤貞二著 無明舎

 [3] 続神壁算法