瀬戸内坂越の廻船と赤穂塩

それは神社・日本100名城巡りから始まった

瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの第14回(播州赤穂)

瀬戸内坂越の北前船交流記

第19回までは「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの全国版」を再構成したものです。

第14回(播州赤穂吉良町)

                         2016年12月14日

 

 12月は忠臣蔵の新説が紹介される事が多く、今年も西本願寺から新たな資料がでていた。

 2008年12月には日経ビジネスが、故長谷川正康著(元東京医科歯科大学名誉教授)が書いた「歯の風俗誌」を紹介していた。


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これは、元禄の刃傷事件を赤穂塩と吉良塩の確執から描いたもので、大筋は以下のようなものだ。  

 5代将軍綱吉に歯磨き用として赤穂塩を献上して以来、江戸では「赤穂塩」といえば歯磨き用の塩を意味するようになる。 

「赤穂名産花形塩」として江戸で評判になり、赤穂塩の江戸への進出がめざましくなっていったと述べている。 

 それまで将軍家へ献上してきた吉良家の「饗庭塩」は、「赤穂塩」が綱吉に献上されて、江戸での面目を失い吉良家にとって浅野家は意識せざるをえない存在になっていく。

 これが吉良と浅野の不仲の遠因だったと話が展開されていた。  

 この将軍家への「饗庭塩」献上について、国会図書館にもその資料はなく、西尾市学芸員の方もそう言われていた。 

さらに郷土史家加古文雄さんも吉良町に塩は、江戸には行っていと言っています。

 

 墨田区の「たばこと塩の博物館」では、こんな面白いスト-リーが史実なら、塩の研究をしていた学者が論文で残していたはずだ話があった。

 その一方、「江戸の入れ歯師たち」や「噛む」には、1854年四壁庵茂蔦著「わすれのこり」と1855年山崎美成著「赤穂義士随筆」に、江戸での赤穂塩の人気ぶりが書かれていた。

 堀部安兵衛が、歯磨き粉で赤穂の焼き塩で、江戸で最も有名だった芝の「かねやすゆうげん」の店の看板を書いた絵を紹介していました。

  その安兵衛の書いた看板は、去年の12月に赤穂観光協会の鍋谷会長ら4人で泉岳寺に行った時、赤穂義士記念館で私が見た看板の1枚だった。

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 また、大高源吾も麹町の歯医者だった小野玄入の看板を書いて、赤穂塩が江戸で1番人気でお祭り騒ぎにまでなっていたと書かれていました。しかし、これは時代が違うのと考えている。

 

 その「かねやす」は今も残り、江戸期は塩を含んだ歯磨き粉を売っていたと言っていました。これで赤穂塩の江戸の活躍の史実と、吉良の塩の江戸での創作で、書いた架空の話のようだ。

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  長谷川氏の本から赤穂塩には、江戸でもドラマがあった事を知った。赤穂塩が江戸まで運ばれるようになったのか、いつ頃かはっきりしていない。

ただ、1619年から菱垣廻船が江戸まで、あらゆる物資を運んでおり、この廻船を使い大阪から江戸に行っていたと考えている。

 1800年代に入り、日本海の廻船が活発になり、三田尻も塩を北海道まで運ぶよりなった事から、瀬戸内の廻船は衰退していく。

 坂越の廻船は、江戸への塩廻船へ軸足を移して、赤穂塩がより有名なる。

 長谷川氏の著書は、時代を全部一緒にしていると感じた。

 赤穂で完成した入浜式塩田は、昭和28年鹿島建設によって流下式に変わるまで300年以上続き、吉良町もまた、昭和29年鹿島建設によって太平洋側で唯一流下式の工事が始まっていたのです、その流下式も国の政策により共に閉じた。

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終わりに、この14号を書くにあたり、西尾市郷土史家の加古文雄さんには随分お世話になった。

 吉良町の塩田跡等を丁寧に車で案内して頂いたのは去年の事でしたが、その時「饗庭塩」は岡崎の八丁味噌 に用いられ、「塩の道」を経由して長野県伊那地方や塩尻まで運ばれ、にがりが少なく良質だと珍重されたと説明して頂けた。   

 その加古さんと、この12月に再開が出来た時は懐かしい感じがしました。去年から続く交流で浅草では楽しい時間が持てた。  

 最後にはこのシリーズをお渡しした。

加古さんからは、暖かい声援を頂いて頂いた。

 ( 矢竹考司)

                             

瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの第13回(江差)

第19回までは「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの全国版」を再構成したものです。

 

坂第13号(江差2)
     2016年11月28日

 北前船寄港地フォ-ラムIN北海道江差に参加して



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 北前船に関わってまだ1年が過ぎたところであるが、偶然的な出会いが多く重なり、
まったくの素人の我々は北前船に深く関わるようになった。まるで北前船が導いてくれた・・・そんな不思議な思いである。そして今回もいろいろな出会いがあった。

 江差函館空港から車で約2時間かかった。日本海に出て、少し海沿いに走ると帆船が見えた。将軍徳川慶喜が大坂を脱出する際に乗った幕府軍の軍艦である開陽丸で、江差町のシンボル的存在でその開陽丸は江差の沖に沈んでいるf:id:kitamae-bune:20170105055636j:plain江差は、人口8104人の日本海に面した漁村で、そこにある江差町文化会館が会場となっていた。
 私たちが会場に着いた時はすでにフォ-ラムは始まっていて、会場内からは北の地を彷彿させる江差追分の歌声が響いていた。我々は会場には入らず赤穂市坂越のブ-スを開き、播磨屋さんの塩味饅頭と奥藤酒造のお酒をフォ-ラム参加者に振る舞った。

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大変な盛況で多くの関係者に坂越の名前を知っていただけたのではないか。またこの会場で近くのスポ-ツ都市として成功している北斗市に視察に来られていた赤穂市の市会議員さん6名が忙しい合間をぬって我々のために応援に来てくださった。
 
我々の隣には洲本市がブ-スを出し、クイ-ン淡路島と共に淡路の売りみをしていた。
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そのほか函館・秋田・酒田・加賀・敦賀尾道鳥取岡山市などが観光・物産のブ-スを開き、彼らと大いに交流を図ることができた。因みに行政以外で参加していたのは我々だけであったので市会議員さんの応援は心強かった。またこの観光・物産のブ-スにフォ-ラムの代表者や北海道の有力者の方々が訪ねてくださり名刺等を交わすことができたのも今回の大きな成果だった。
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 フォ-ラム2部ではJR北海道代表取締役社長の島田修さんの基調講演がありました。
3部ではパネルディスカッションA「北前船江差文化を語る。」で、江差と言えばなんといっても頭に浮かぶのは「江差追分」ではないだろうか。信州馬篭に端を発した「追分」が北前船に乗って江差まで来て江差追分」が歌われるようになりその歌は1000種以上あると聞きました。


 パネルディスカッションBでは「道南の文化遺産と観光資源の輝かせ方」と称して、観光で成功した例を挙げ意見交換がなされた。
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終わりに次期開催地の洲本市長竹内道弘氏が挨拶をしてフォ-ラムは閉会となった。来年5月には兵庫県が主催でフォーラムを開催する予定ですが、他の市町村の寄港地がまだ参加を表明していない為、洲本市中心に、淡路島3市だけで開催となりそうですが、まだ兵庫県の正式発表はされていません。
  フォ-ラム終了後、レセプション会場となった近くのニュ-えさしというホテルに会場を移し酒宴が行われた。江差町の町民によるご当地料理でお持て成しを受けた。さすが北海道で食材が豊富でどれもほんとうに美味しかった。我々も負けずに奥藤酒造の忠臣蔵大吟醸3本を振る舞ったが、15分もしないうちになくなってしまった。
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またこの会場で来賓の紹介をする際に洲本市の代表といっしょに壇上に上ることができたのは光栄であった。
 宴会も終わり同ホテルの部屋に戻ったが、飲み足りなかったので、一人町を散策しているうちにひっそりとただつむ雰囲気のよさそうな小料理屋を見つけ入ってみた。先客と女将さんの会話をしばらく聞きしていた。するとそのご夫婦は今日のフォ-ラムで「江差三下り」というちょっと艶ぽい舞の歌と尺八を担当していた人たちとわかった。私も今日のフォ-ラムの会場にいたと話したことから話が弾み、やがて「江差追分」の話になるとご夫婦が熱く語り始めた。女将さんは全国江差追分コンク-ルで日本一にもなったことがある強者でほんとうに驚いた。先客が帰った後、一曲だけうなりましょうかといってくださったので、ぜひにとお願いした。女将さんはお昼に声を出したので、もううまく出ないかもしれませんが・・・とことわり一曲だけということで聞かせていただいた。

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 一つの言葉を独特な抑揚をつけながら長く歌う「江差追分」は、その抑揚がまるで潮騒か波音に聞こえ情感を作り出す。そしてそこに歌い手の気持ちが込められるため目を閉じると聞き手のインスピレ-ションと相まってその情景の中へ誘い込まれる。歌っていただいた歌が分かれの歌だったため、悲しく淋しい思いにかられた。すばらしく、貴重な経験をさせていただきほんとうに感謝につきない。
 歌が終わったころ10名ぐらいの人が入ってきた。その中のリ-ダ-格の人が、また女将さんに「江差追分」をリクエストしていた、地元の有力者風で断り切れない雰囲気で気の毒に思えた。その人たちもまたフォ-ラム関係者で同席させていただくこととなった。聞けば北海道江差フォ-ラムの実行委員長と大阪21世紀フォ-ラムの会長、大学教授、JR、そして今日のフォ-ラムを企画した人たちだった。その場で坂越についてお話をさせていただいた。すると「以前からあなたたちが一生懸命に活動していることは聞いてた。お聞きすると坂越という港は北前船にとって欠くことのでない所じゃないで
すか」というお褒めのお言葉をいただいた。その後女将さんのすばらしい
江差追分」を聞き、12時過ぎにホテルに戻った。(寺井秀光)
                  

瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの第12回

第19回までは「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの全国版」を再構成したものです。

 

 12(江差1)

   

  今回は地元坂越選出の赤穂市会議員の投稿です。     


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       2016年11月28日

                                              
「第18回北前船寄港地フォーn江差」に参加して

 

   11月11日に北海道江差町で開催された「第18回北前船寄港地フォーラムin江差」に参加しました。

 

「坂越のまちなみを創る会」有志3人と私を含む市会議員6名での参加です。f:id:kitamae-bune:20170105060246j:plain   

 それについて簡単に報告させていただきます。 北前船とは何であるかとか それが赤穂市(坂越)とどのような関わりがあるかなどはこの文章を読んで頂いている方は既にご存知のことと思いますので ここでは触れません。
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  私が議員として興味を持っているのはそれが町の活性化にどう役立つのか。観光客の誘客にどれくらい寄与するのかです。現在国が観光に力を入れているのは皆さんもご存じと思います。観光については日本にはまだまだ大きな伸びしろがあるということだと思います。特にその思いは地方では切実です。 赤穂市の観光客はそれなりの数があるのですが 滞在時間が短いのが問題であると言われています。姫路城見学のついでとかのついでの観光地になってしまっているのです。そのような問題意識の中で有志3人の熱意に引きずられるようにして、今回の「北前船寄港地フォーラム」に参加することになりました。

  江差町は函館から車で1時間半ほど、人口8千人ほどの小さな町です。かつて北前船全盛の頃は、「江差の五月は江戸にもない」と謳われたほど栄えた町です。それが北前船の衰退、にしん漁の衰退とともに寂れて行きました。

 しかしここは往時の古い町並み、施設がよく保存されており、現在はそれが貴重な観光資源となっています。
フォーラムは全国各地の市町村、観光関係者など340名が集まり熱い雰囲気の中で開催されました。北前船は単に日本海側から上方に物を運んでいただけではありません。同時に人の交流とか文化の交流で大きな役割を果たしていました。考えてもみて下さい。我々の祖先が小さな帆船にいっぱいの荷物を積んでこの赤穂の地から北陸・東北まで荷物を運んでいたのです。難破する可能性も高かったでしょう。そのロマンが参加する人々の心を熱くさせるのだと思います。

 さて、観光の観点から見ると北前船赤穂市での観光のもう一つの目玉になる可能性があります。赤穂市は義士関係の観光しかない。
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  それが問題だとよく言われます。その問題を解決する一つの可能性が北前船ではないかと今回強く感じました。また、赤穂市の中でも周辺部の衰退は激しいものがあります。それを解決する一つの手段としても北前船を利用した町おこしは有効ではないでしょうか。

  赤穂市では他の地区と違ってこの活動を行っているのが民間の人が中心であることが私には心強いと感じられます。

 

  行政が主導すると型にはまったことしかできないのです。どこかで見たことのあるような観光地がここにも出来たという感じになりがちです。
しかし、赤穂市ではまだこの運動は始まったばかりです。まだまだ解決しなければならないことも多いです。

 私も少しでも困難を乗り越えていくための力になれればと思っています。以上簡単ですが報告させていただきました。  奥藤隆裕 (赤穂市市会議員) 

瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの第11回(珠洲市)

第19回までは「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの全国版」を再構成したものです。

                           2016年11月21日

  前回の10回で、竹原や播磨の塩に打撃を受けた新潟や山形では塩田が姿を消した事が県史から紹介したが、石川県、富山県の県史に記載がなかったのが疑問だった。

 この疑問が、能登の塩田村の横道嘉弘社長と2016年11月7日に東京での三国清三氏のパーティでお会いして解けました。

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この時、石川県の郷土歴史家の長山直治氏との共著『能登揚浜塩田』を頂いた。

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 ここで長山氏は、赤穂の入浜式は、揚げ浜式と同じ労力で10倍の経営面積で塩が作れていたと具体的に述べられていました。

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赤穂市海洋科学館)

 更に1659年加賀藩は、能登の塩生産者を守る為、着岸を厳しく監視し密告者には褒美まで与え瀬戸内等、他国塩の流入を禁止していた事も書かれていた。

  加賀藩の規制は、入浜式塩田が赤穂、竹原で完成して12年後だった事に注目ができる。

 1650年代、能登まで塩を船で運べたのが、竹原と赤穂(坂越)高砂だけなのは、他の地域ではまだ入り浜式塩田が完成していなかったからだ。

 1670年代酒田大信寺の過去帳に、坂越浦の大西家の名が酒田市史にあったが、同じ播磨の高砂荒井の塩と廻船の実態もわかっていない。

 当時、赤穂では1斗換算の俵で300万俵、姫路藩は178万俵で、新潟市史には1670年後半、越後に高砂から荒井塩を運んだ記録があった。

 横道氏の話で、能登の揚げ浜塩田が「世界農業遺産」になっていた事をしった。 

        ( 矢竹 考司) 

  

   奥能登の揚浜塩田について  

 

 能登では製塩遺跡の塩田跡から数えると、揚浜式製塩は1300年ほど前から中世を通して受け継がれてきた技術(珠洲市教育委員会文化財課次長・大安尚寿氏)といわれております

 その伝統のうえに近世の塩業が発達しますが、能登一円に広がったのは江戸時代初期で、加賀藩三代藩主利常が塩手米制度をつくって製塩を奨励したことによります。 

 

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 藩は1627年から専売制をしいて、明治までの約240年にわたり生産から販売までを支配する政策をとっていました。 

 しかし1672年に河村瑞賢が下関を通り大阪へ向かう西廻り航路を整備した事から、赤穂を中心とする、瀬戸内の入浜式による合理的な製法の塩が北前船で大量に入るようになると、能登の生産性の低い揚浜式製塩はその塩に押され、次第に衰退に向かいます。

 

 そして江戸後期から明治にかけて幾度かの塩田の整理が進められ、1872年(明治5年)に「塩手米制度」が廃止されると斜陽産業の道を歩みました。

 この塩業の窮状のなかで能登の製塩振興のために尽力した「藻寄行蔵」らの働きがあり塩田が存続されましたが、1905年(明治38年)には国の専売制の施行によって塩業の凋落が加速されました。二次、三次の塩田整理のなかで廃業が進みますが、能登半島先端の地域は製塩従業者が多く、地方経済に及ぼす影響や他に産業がなく転職問題があったために最後まで製塩は禁止されませんでした。

 

  けれども、1959年(昭和34年)、遂に揚げ浜製塩は禁止され、能登からも姿を消すことになりました。  国は1971年(昭和46年)、安価な塩をつくるため日本の製塩をイオン交換膜法という化学的な塩の工場生産に転換したのです。

 

 しかしながら、地元では揚浜式製塩の伝統的技術が消滅することを惜しむ気持ちが強く、次第に盛んになってきた能登観光の資源にしたいという意向もあり、珠洲市は揚浜塩田を消滅から守るため補助金を出して存続を図り、角花家の塩田を残しました。

 この製塩技術が2008年(平成20年)には国の重要無形民俗文化財に指定されています。

 

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私ども奥能登塩田村も、この伝統的な製塩文化を守り後世に継承することを経営理念と

 て、塩田村施設を管理運営いたしております

 (※ 本稿は、能登珠洲の製塩史に詳しい郷土史家・長山直治氏(故人)の著書を基に私自身の考えも加えて記しました。) 

  横道嘉弘 (株式会社 奥能登塩田村 代表取締役

 

瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの第10号(赤穂塩)

第19回までは「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの全国版」を再構成したものです。

 

 第10号(赤穂塩)

 

     2016年10月23日  

 かつて赤穂塩は、江戸では差塩、大坂では真塩がブランドだった。

 

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当時の「製塩用具」は国の重要有形民俗文化財になっている。

今回は、瀬戸内の塩が苦難な時代それを乗り切った赤穂塩の話。  

瀬戸内海と日本海の塩に、大きな価格差があった時代がありました。 

 それは、やがて瀬戸内の生産者も塩に苦しめられる事になります。 

良品質で、驚く程安い竹原や播磨の塩は、日本海の塩生産に1680年代から影響が出始め1696年には塩生産が出来なくなっていたと、新潟県史や山形県史にあった。

 これは、三田尻が入り浜式塩田が出来る1699年前の事。

 また、竹原市史には越後地方の古文書から竹原塩と赤穂塩の相場の比較が掲載されている。

 佐渡に残る客船帳には、播磨船籍104隻の内、坂越の廻船が52隻の記録もあります。

 しかし、播磨塩の内赤穂塩がどの程度あったかは文献がないので実態はわかりません。

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 10倍近い価格差があった時代は、長くは続かなかったのは瀬戸内海沿岸に大きな塩田が次々に誕生したから。こうして、生産過剰から価格が下落し長期の塩田不況を招いている。

 この製塩燃料について、佛教大学で千原義春さんが卒論の、最後のまとめの部分を要約して掲載します。(矢竹)     

 

              赤穂塩業と製塩燃料について

 

 製塩において、煎熬に用いる燃料の確保は極めて重要な問題であった。

 近世に入って塩田開発が進むと、薪類の需要が増え、それまでのように塩田周辺だけではその需要をまかなえなくなった。 

 そこで、塩田所在地に流れ込む河川の上流部や他領からも薪類を移入するようになる。 しかし、製塩燃料としてのみならず都市生活の発展に伴う家庭用燃料への需要も拡大し、薪類は供給不足となりその価格は高騰した。

 薪値の上昇は、塩田濫造が要因の不況に拍車をかけていた中、塩田不況打開策として休浜替持法とともに導入されたのが石炭焚である。塩業者らは、製塩燃料として石炭を利用することにより生産費を抑制でき、不況を乗り越えられたのである。  

 赤穂で用いられた石炭は、当時の史料によると、全て肥前国から廻送され、その年間移入量は天保から嘉永頃までの平均でおよそ4900㌧であった。 製塩燃料として石炭を導入で、コスト削減や技術の発達等のメリットがあった。


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一方で、塩田労働者や塩田に薪類を供給してきたその生産者の収入減といった問題も生まれたが、赤穂では、この問題は上方市場に近いという経済的地理的条件により特に発生しなかった。 

 

 本稿では、塩田不況打開のための、もうひとつの不況対策の休浜替持法に関しては、ほとんど言及していない。 

 石炭焚には、「生産費を減少せしめ塩業合理化をはからんとする、休浜法の一分野を占めるもの」という側面があり、石炭焚と休浜替持法は密接不可分の関係にあるといえる。  

 また、石炭焚の開始によって塩田経営が持ち直したことを、総生産費に占める燃料費の割合にのみ着目して考察した。

 だが、例えば明治初年頃の場合、石炭代が急騰しその費用の総生産費に占める割合は高くなったものの、燃料費以上に塩価が上昇し、大きな利益をあげることができたという。 

 このように、燃料費が高騰したにもかかわらず利益の出た年があったことを鑑みると、石炭導入による塩田経営の改善を論じるには燃料費に注目するだけでは不充分であったといえる。 

 それ故、塩田経営全般を俯瞰したうえで石炭導入の利点を検討すべきであろう。 さらに塩業史の観点から、江戸期後半になって誕生し、一時は日本一の塩田の持ち主だった田淵家のような豪農と、その経済活動等を手掛かりに、近世社会が変容し、やがて近代へと移行していった過程を考察することも今後の課題としたい。 

     千原義春(佛教大学大学院修士課程・歴史学専攻) 

                           

瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの第9回(秋田)

第19回までは「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの全国版」再構成

 

第9回(秋田土崎)

              2017年1月(2018年7月追記)

 秋田市観光案内所に北前船と土崎の祭りに詳しいガイドの依頼すると、土崎の佐藤節子さん(写真)を紹介していた。

 

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 佐藤節子さん。

北前船と関係が深い 「土崎神明社祭の曳山行事」に関心があったのは、この11月ユネスコ無形文化遺産登録に、「山、鉾、屋台行事」のテーマで国無形民俗文化財の66の祭礼の中から33が一括審議されるからだ。 

 

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 それは、ユネスコ世界文化遺産に登録されると、まだ半分残る33ある国無形民俗文化財の坂越の船祭りも注目されると考えたからだ。
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 佐藤節子さん。

土崎港曳山祭りのしおり(土崎経済同友会創立60周年記念号)に、秋田市長の祝辞があり、ユネスコ文化遺産の登録が実現すれば土崎港の曳山祭り等、国の無形民俗文化遺産を国際社会に発信出来ると述べられていた。

  北前船やこの祭りについて、秋田市役所で副参事の熊地尚子さんに佐藤さんと聞いた。

 土崎曳山祭りは、寄進等を通じて支えていたのが北前船にかかわった人達で、お囃子掛け声等は、遠く熊本や江差から影響を受けていたとの事だった。

これは、廻船業で繁栄していた坂越の船祭りの構図が似ていた。

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  また、2016年5月19~21日に開かれる「酒田まつり」に、初めて秋田市の「土崎神明社祭の曳山行事」が参加した話もあった。

 これは、酒田の日和山公園で開催されたものでここには、河村瑞賢の銅像や、坂越の2人の名が残る文化文政時代の常夜燈がある。

この史上初めての試みは、 酒田市加賀市秋田市が中心に10年近く北前船寄港地フォーラムを開いていた事で実現したのだ。

 また、来年2月北前船寄港地として日本遺産登録の申請を予定していると聞きました。

日本遺産登録が実現すれば、地域が連携する観光事業が本格化しそうだ。

 土崎の北前船の足跡について佐藤さんから、満船寺に難破した人たちの合葬墓があると紹介された。

 瀬戸内坂越に残る黒崎墓所には、秋田の3人のお墓があったので、秋田にも瀬戸内海の人のお墓があるかもと考えたが、住職は、合葬墓は酒田、加賀、越後の人が殆どだとの事だった。  

尚2016年12月1日土崎神明社の曳山祭りはユネスコ文化遺産に登録されました。

           (矢竹 考司)

 

瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの第8回(酒田2)

第19回までは「瀬戸内坂越から北前船がもたらしたもの全国版」を再構成したものです。

第8回酒田

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 平成28年9月15日

  今回は北前船寄港地フォーラムへの参加団体の荘内日報社の、論説委員長の富樫様が「新聞研究」に寄稿されたものを掲載しました。
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 掲載にあたり、富樫様と発行元の一般社団法人日本新聞協会に承諾を頂きました。心より御礼申し上げます。 また一部の写真は酒田市広報に協力して頂きました。 

(矢竹考司)

 

わが支局 わが日々「だし文化育んだ物流拠点」

                                                                                                                            荘内日報社論説委員長・富樫慎

     「新聞研究」平成 27  年 9 月号より転載 

 「和食」がユネスコの世界無形文化遺産になった。 その神髄とも言える「だし」文化の発達に、酒田が陰ながら重要な役割を担ったことはあまり知られていない。  江戸の商人・河村瑞賢が西回り航路を開拓したのは寛文12(1672)年。出羽の米を江戸に安全に運ぶためだった。この航路によって北前船が隆盛し、北海道から日本海、瀬戸内海を経由した関西圏との物流が活発化。


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出羽の酒田は東の起点として「西の堺、東の酒田」と並び称されるほど繁栄し、「酒田三十六人衆」の一角をなした鐙屋の繁盛ぶりは井原西鶴の「日本永代蔵」に描かれ、本間家は「日本一の大地主」とうたわれた。  その北前船で北海道から運ばれた重要な産物の一つが昆布で、関西で土佐のカツオと出合い、奥深いだし文化を育んだ。酒田から船が出なければ、和食の無形文化遺産登録はなかったかもしれない。  北前船が和食を育む一翼を担ったというこの話。実は、7月16~18日に大阪市で開かれた第16回北前船寄港地フォーラムで強調されたことだ。   2007年11月に酒田で初回を開き、その後、主に北海道、東北を巡り、今回初めて大阪で開かれた。本紙が初回に実行委員として関わった縁で度々取材しており、今回も酒田支社の私が出向いた。

今大会は図らずも、明治以降に「裏日本」のレッテルを貼られた日本海側や、東京一極集中の負の影響を受け続けてきた地方の関係者が結集した感があった。「東京を経由せず、世界に発信を」「地方に元気がないのは大阪のせい(笑)。 

 

  大阪こそが日本再生の鍵」「北前船を日本遺産に」などの話で盛り上がり、この絆を観光や産業振興に生かすことを確認した。  酒田港は今、国の日本海側拠点港(リサイクル貨物)などとして、多くのリサイクル関連企業などが立地。

 近年は花王酒田工場の紙おむつ輸出が好調で、昨年3月まで韓国・釜山向け週2便の国際定期コンテナ航路が今年6月からは中国直行便を含む週6便と急速に増え、さらなる貨物量の増加が期待されている。  

 

 もっと身近な話題では、酒田はNHK朝の連続テレビ小説おしん」や、アカデミー賞外国語映画賞を受賞した「おくりびと」のロケ地としても知られる。最近はトビウオ(アゴ)のだしを使ったラーメン、質の高い吟醸系の地酒、ジオパーク認定に向け準備が進む鳥海山のおひざ元としても関心が高まっている。  一方で、首都圏以外の多くの地方都市と同様、人口減少は大きな課題。行政も移住や子育て支援、雇用創出に懸命になっている。  しかし、私はあまり悲観していない。 酒田を出港した船が日本の物流の大動脈となってわが国を象徴する料理文化を育んだり、酒田から始まったフォーラムが東京一極集中是正や地方創生という日本の課題に向き合うものに発展したように、酒田には何か、いずれ大きなものに成長するものを生み出す素養があると思うからだ。酒田っ子が発信するものはタダモノではない。丁寧に掘り起こし、光を当てていきたい。 (とがし・まこと)